関東・東海エリアの「やきもの」紹介
update:2025/04/16
関東・東海エリアにある「○○焼」を紹介します。
*一般的に流通している情報をまとめたものであり、諸説や最新の研究成果により、内容が異なる可能性があります。
*掲載情報は、各地の市町村や美術館・やきもの組合が公表している解説、および辞典や関連書籍、
窯元が公表している窯の歴史、学術論文などを参考にしています。
*かつてあった「やきもの」で、現在は閉窯しているものも含まれます。
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栃木のやきもの
小砂焼(こいさごやき) ☆栃木県指定 伝統工芸品
場所:那珂川町 創業:天保元年(1830)〜
水戸藩主・徳川斉昭(烈公)の殖産興業政策によって、小砂の陶土が使われ、藩営御用製陶所として開窯。明治34年(1901)に陶石を発見し、磁器の焼成にも成功した。黄色に輝く〈金結晶〉や深い赤みを出す〈辰砂〉の釉薬が素朴さと美しさを出しているのが特徴的。現在も数軒の窯元が活動を続けている。
小砂焼 藤田製陶所 https://www.instagram.com/koisagoyakifujita/
益子焼(ましこやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品 ☆栃木県指定 伝統工芸品
場所:益子町 創業:嘉永6年(1853)〜
笠間で修行した大塚啓三郎が益子町に開窯。当初は黒羽藩の保護を受け、半農半陶で鉢・水甕・土瓶など日用雑器を作っていた。大正13年(1924)に人間国宝の濱田庄司が移住・開窯し、益子焼は美術工芸品としても注目されるようになった。現在は多種多様な陶芸家が集まり、作風も多種多様。
益子焼協同組合 https://mashikoyakikumiai.shop
補記:益子では縄文土器が出土しており、古代の須恵器窯跡も発見されていることから、この地の窯業の歴史は古いと考えられる。
みかも焼(みかもやき) ☆栃木県指定 伝統工芸品
場所:栃木市 創業:昭和46年(1971)〜
平安時代に屋根瓦が焼かれ、その後は鉢などの土器、さらに昭和はじめまでは土管の町として栄えた三毳山(みかもやま)。その土を用いて、土管製造に見切りをつけた川原井文次郎が創始。鉄分の多く含む土で、水が腐りにくいのため、花器類が人気。現在は2代目が窯を守っている。
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群馬のやきもの
自性寺焼(じしょうじやき)
場所:安中市 創業:江戸中期?〜明治38年(1905)
安中市下秋間自性寺の周辺で開窯。窯跡が残されており、江戸中期にはあったと考えられるが、詳細は不明。主に日用雑器が焼かれ、窯元も複数あったが、最後の窯元が明治に益子へ移窯、この地の窯業は閉窯となった。
補記:秋間丘陵には、古代の秋間古窯跡群が見つかっており、関東地方で最大級の須恵器の産地であったと考えられる。
【再興】
自性寺焼(じしょうじやき) ☆群馬県ふるさと伝統工芸品
場所:安中市 創業:昭和53年(1978)〜
前橋出身の陶芸家・青木昇が、自性寺焼の古窯跡を調査研究し、秋間古窯跡の近くに開窯、再興させた。地元の材料にこだわり、良質の陶土を発見、登窯や穴窯を築窯した。
自性寺焼 里秋窯 https://jishojiyaki.jp
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茨城のやきもの
宍戸焼(ししどやき)
場所:笠間市 創業:寛政7年(1775)〜
宍戸村(笠間市宍戸)で、水戸で製陶を学んだ山口勘兵衛が開窯。この山口家は7代目まで続いたが、現在は山口窯を常陸窯が受け継いでいる。宍戸焼は箱田焼と共に笠間焼の源流とされ、現在の笠間焼は二つを合わせた総称とも言える。
常陸窯いそべ陶苑 http://kasamayaki.jp
補記:水戸光圀が招聘した明の儒学者・朱舜水は、陶工を伴って渡来しており、水戸に製陶技術をもたらした。
笠間焼(かさまやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:笠間市 創業:安永年間(1772-1781)〜
箱田村(現在の笠間市)の久野半右衛門が、信楽の陶工・長石衛門の指導で開窯。別名「箱田焼」。寛政年間(1789-1801)には藩主が保護、自らも御庭焼を始めた。明治以降は衰退するも、昭和25年(1950)に茨城県窯業指導所が設立されて、窯元が増加。さらに県内外から陶芸家が集まるようになり、現在は伝統と同時に多種多様な個性が重んじられている。
笠間焼協同組合 https://kasamayaki.or.jp
七面焼(しちめんやき)
場所:水戸市 創業:天保9年(1838)〜明治4年(1871)頃
幕末の名君・水戸藩の徳川斉昭が、神崎七面堂の南側(常磐神社南側の斜面一帯)に七面製陶所を開窯。小砂の陶土が使用され、製陶所跡からは陶器、焼締、磁器の3種類が出土。藩がなくなったことで、明治初めには閉窯しており、30年あまりの幻のやきものとなっている。
一般社団法人 七面会 https://www.shichimenyaki.com/
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埼玉のやきもの
飯能焼(はんのうやき)
場所:飯能市 創業:天保3年(1832)〜明治20年(1887)頃
真能寺村(飯能市)に、飯能村の双木清七が開窯。天保年間から明治の約50年間焼かれ、廃窯した民窯の一つ。伝世品がほとんどなく、”幻の飯能焼”とされてきた。貴重な「双木本家飯能焼コレクション」は、市の有名文化財(美術工芸品)に指定されている。
【再興】
飯能焼(はんのうやき)
場所:飯能市 創業:昭和50年(1975)〜
昭和50年(1975)に土岐の美濃焼窯元であった虎澤英雄が開窯、復興させた。伝統を生かしつつ、新しい「飯能ブルー」と呼ぶ〈翠青磁〉を発表。現在は2代目が継承している。
山王焼(さんのうやき)
場所:東松山市 創業:安政2年(1855)〜
真日吉町山王地区(東松山市)に、信楽の陶工の協力を得て、横田彦兵衛が開窯、別名「松山焼」。日用品や置物などが焼かれたが、後に製糸工場用の器械鍋や土管、瓦など、時代に合わせて様々作られた。昭和に一時途絶えたが、近年、5代目まで続いていた窯元の6代目・横田隆史が「新山王焼」を掲げ、復活させた。
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東京のやきもの
玉川焼(たまがわやき)
場所:稲城市 創業:天保5年(1834)〜明治中期
多摩の坂浜村(稲城市)に、瀬戸や京で修行した榎本紫水が開窯した〈楽焼〉。榎本家は農業の傍らで土瓶や徳利などを焼いていた家で、紫水(初代)は榎本家の4代目にあたる。5代目も紫水を名乗り、明治中期まで作られていたが廃窯。模倣品も多く作れたが、初代の紫水の作品の評価が高い。
隅田川焼(すみだがわやき)
場所:墨田区東向島 創業:文政2年(1819)頃〜昭和初期?
骨董屋で粋人の佐原鞠塢(さはらきくう)が隠居後、庭園「百花園」を開き、その園内に開窯。隅田川周辺の土を使ったやきものを作り、江戸の文化人にもてはやされた。〈都鳥〉の文様を描いたものや都鳥の香合などが有名。4代目まで続いていたが、昭和にはいって廃窯している。
江戸万古(えどばんこ)
場所:墨田区向島小梅 創業:宝暦年間(1751-1764)〜寛政12(1800)年頃
萬古焼の祖・沼波弄山が、将軍家御成先御用・御数寄屋御用を受け、江戸小梅に開窯。別名「小梅萬古」。桑名の土を使い、桑名の陶工に焼かせたため、桑名の古萬古との判別は難しい。弄山の死後は番頭が差配したが長くは続かず、廃窯となった。
※萬古焼の詳細は
「三重のやきもの」を参照。
吾妻焼(あずまやき)
場所:文京区 創業:明治18年(1885)〜明治29年(1896)
明治政府に招聘された、“日本の近代窯業の育て親”でドイツ人の科学者ゴットフリード・ワグネルが、東大理学部の教授に就任し、開窯。釉下に日本画風の絵付けした〈低火度焼成陶器〉を創始した。退官後の明治20年(1887)に渋沢栄一らの出資により深川に試験場を成立、「旭焼」に改称するも、10年にも満たずに廃窯した。
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神奈川のやきもの
真葛焼(まくずやき)
場所:横浜市 創業:明治4年(1971)〜昭和20年(1945)
京都の真葛ヶ原の九代茶碗屋長兵衛の息子・宮川香山が横浜の太田町に開窯。別名「太田焼」。当初は薩摩風の錦手を焼いたが、後に優れた磁器も制作。特に初代は明治期の輸出陶磁器の中でも超絶技巧の作品を制作したことで知られる。4代まで続いたが、昭和20年(1945)の戦災により廃窯となった。
宮川香山眞葛ミュージアム http://kozan-makuzu.com
補記:真葛焼に代表される、大正期に横浜で焼かれた和洋混在の輸出用陶磁器を「横浜焼」と称することも。
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静岡のやきもの
志戸呂焼(しとろやき) ☆静岡県指定 伝統的工芸品
場所:島田市 創業:大永年間(1521-1615)〜
大井川の西金谷の宿一帯の志戸呂郷(島田市金谷町)に、瀬戸の陶工たちが開窯したと言われる。その後、徳川家康が免許の朱印状を出し、徳川家御用窯として保護された。小堀遠州による遠州七窯に数えられ、現在も茶陶が有名。金谷一帯で採れる、鉄分の多い土で硬く焼くのが特徴で、抹茶や煎茶用の〈黒釉〉の茶器が中心、現在も複数の窯元が伝統を守っている。
初山焼(しょさんやき)
場所:浜松市細江町 創業:室町時代?〜?
寛文4年(1664)に開山した初山宝林寺の境内に窯跡が残っており、寺の什器を焼いた窯と考えられたため「初山焼」の名付けられた。しかし、その後の研究により、開山より100年近く古いものと判明している。日用雑器の他、〈天目釉〉の茶器や神仏具が出土その特徴から、瀬戸美濃大窯の流れではないかと考えられる。
賤機焼(しずはたやき)
場所:静岡市 創業:江戸時代初期〜文政11年(1828)頃?
徳川家康が駿府在城の頃、「賤機焼」の名を拝領し、太田七郎右衛門が賤機山麓(静岡市)に開窯。以後、駿府城や久能山東照宮の御用窯として栄えたが、文政年間(1818-1830)に衰退。一説には、安倍川が決壊したことにより大水害で、窯が壊滅したと言われる。明治にはいり、太田萬治郎により再興。以後、断絶を繰り返している。
【再興】
賤機焼(しずはたやき) ☆静岡県指定 伝統的工芸品
場所:静岡市 創業:明治中期〜
静岡県が郷土の産業の一つとして再興を試み、陶工の青島庄助が招かれて開窯。2代目五郎のときに、常滑の技術を導入、鉄分を多く含む素地による〈南蛮手〉や、釉裏紅や辰砂などで紅色を出すやきものを制作。さらに3代目秋果になって独自性豊かなやきものとなり、現在は5代目。
賤機焼窯元 秋果陶房 https://shizuhatayaki.com
森山焼(もりやまやき) ☆静岡県指定 伝統的工芸品
場所:森町 創業:明治35年(1902)〜
中村秀吉が志戸呂焼の鈴木静邨を招き、開窯。森町森山の土を用い、当初は土管や水瓶などから始めたが、大正4年(1915)には天皇即位奉祝のために花瓶と置物を献上、名を広める。現在は、初代の伝統を受け継ぐ中村陶房のほか、全4軒の窯元が、赤焼や民芸調など、それぞれの窯の特徴を出した森山焼を続けている。
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愛知のやきもの
瀬戸焼(せとやき)
場所:瀬戸市 創業:平安時代〜
瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称で、「日本六古窯」の一つ。中世から途絶えることなく、窯業地として1000年以上の歴史がある。平安時代には無釉の碗や皿、鎌倉〜室町時代は「古瀬戸」と呼ばれる施釉陶器、桃山時代は天目茶碗などの茶陶、江戸時代に染付磁器を生産した。現在は、産業としての窯業と美術工芸の分野が共存、窯元が集まる地区(かつての集落)は、市内に複数箇所ある。
愛知県陶磁器工業協同組合 https://www.aitohko.com
補記:瀬戸市を中心に作られる陶磁器を「瀬戸物(せともの)」と呼び、東日本では陶磁器を意味する言葉として使われている。
赤津焼(あかつやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:瀬戸市赤津 創業:慶長15年(1610)〜
瀬戸焼の一種。美濃で修業した仁兵衛・陶三郎の兄弟が尾張藩主に招聘されて、赤津で開窯。〈織部釉・志野釉・黄瀬戸釉・古瀬戸釉・灰釉・御深井釉・鉄釉〉の7種類の釉薬と、へら彫り・印花・櫛目・三島手などの12種類の多彩な装飾技法が特徴。
赤津窯の里めぐり https://akazuyaki.wixsite.com/seto
補記:この地域のやきものは、奈良時代の須恵器まで遡る。鎌倉時代にはすでに施釉が行われており、江戸時代初期に、現在の赤津焼に至る技法が確立したと考えられている。
瀬戸染付焼(せとそめつけやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:瀬戸市 創業:江戸時代後期〜
瀬戸焼の一種。瀬戸の磁祖・加藤民吉が磁器の製造法を肥前で学び、〈瀬戸染付磁器〉を創成。猿投の花崗岩に瀬戸産の陶土を混ぜた、地域特有の味わいある磁器が特徴。その白い素地に良質な呉須を用いて、南宋風の山水や花鳥など描く作風は、他の窯業地と一線を画して急速に発展。近代の瀬戸窯業の飛躍の大きな要因となった。
瀬戸染付工芸館 https://www.seto-cul.jp/sometsuke/
セトノベルティ(せとのべるてぃ)
場所:瀬戸市 創業:明治後期〜
ノベルティとは陶磁器の人形や動植物などの置物のこと。明治に西洋から技術が伝わり、大正期には本格的に作られるようになった。隆盛のきっかけは、第一次世界大戦(1914-1918)。ノベルティ生産の中心だったドイツからの輸入が止まったアメリカは、瀬戸に注文したことから。その後は高い評価を得て世界中に輸出されるようになり、隆盛した。戦後の瀬戸の窯業を牽引したセトノベルティであったが、主に輸出用であったため国内での知名度は低く、しかも現在は受注も激減している。
川名焼(かわなやき)
場所:名古屋市川名町 創業:寛永年間(1624-1644)〜明治20年(1887)頃
瀬戸の陶工・加藤新七が川名町に開窯。染付磁器を始めるが、瀬戸からの抗議により、当時の最新技術だった〈銅版転写〉の絵付けのみの生産となった。しかし、技術的に難しい面も多く、廃窯。安政年間(1854-60)に寺尾市四郎が再興、瀬戸赤津の陶工・加藤春岱も来ていたとされるが、不明点が多く、研究が進められている。
御深井焼(おふけやき)
場所:名古屋市 創業:寛永年間(1624-1644)〜明治4年(1871)
尾張藩2代藩主・徳川光友が、名古屋城内の下御深井御庭に開窯した御庭焼。瀬戸・赤津の陶工を招聘し、主に茶器を焼いていた。その後は途切れるも、10代斉朝が復活させたと考えられ、名物茶器の写しなどを生産した。尾張徳川家御庭焼の代表的存在だったが、明治の廃藩とともに閉窯。
笹島焼(ささじまやき)
場所:名古屋市 創業:文化年間(1804-18)〜大正12年(1923)頃
笹島町(名古屋市中区)で牧朴斎(通称は文吉あるいは文七)がはじめた〈楽焼系軟質陶器〉。鮮やかな色彩で絵付けした茶器や酒器などで知られる名工で知られる。3代まで続いたが、名古屋駅の拡張で廃窯となっている。
豊楽焼(とよらくやき)
場所:名古屋市 創業:江戸後期〜大正14年(1925)
尾張藩御焼物師・加藤利慶(初代)が万松寺南の隠郷(香久連里)に開窯。〈楽焼系軟質陶器〉で、草花などを絵付けしたものに、緑釉を掛け流したものが多く、主に茶器。特に3代豊介は煎茶器の名手と伝わっている。8代まで続いたが、その後閉窯した。
不二見焼(ふじみやき)
場所:名古屋市 創業:明治12年(1879)〜大正期
前津(現在の名古屋市中区)に、村瀬美香(びこう、通称:八郎右衛門、号:不二山人)が趣味でやきものをしていたが、明治12年(1879)に、瀬戸から陶工を招き、本格的に製陶を始めた。茶器や日用雑器を焼いていたが、大正期には減少。大正7年(1918)からは、タイル専業となり、タイルメーカーとして発展した。
補記:和製タイルとして名高い「不二美タイル」。大正〜昭和初期、その鮮やかなレリーフタイルは日本を代表するタイルとして国内外に人気を博した。しかし平成18年(2006)、不二見セラミックは倒産している。
名古屋絵付(なごやえつけ)
場所:名古屋市 創業:明治初期〜昭和中期
瀬戸・美濃の素地に、輸出用の華美で高い装飾性の上絵付けを施した「名古屋絵付け」。明治初期、瀧藤萬次郎や松村九助などが陶磁器貿易を創業、その後、輸出用陶磁器の需要高騰に伴い、上絵付工場が次々と設立された。全国から絵付けの職人(画工)を集め、現在のノリタケの前身である「森組」の工場には最盛時には約千名の画工が集まる一大工場となった。昭和の初めまで名古屋は“陶磁器の街”として隆盛したが、徐々に衰退した。
補記:日本の代表的な陶磁器ブランドの一つであるノリタケは、現在も名古屋に本社・工場を置いている。なお、明治から戦前までの作品は「オールドノリタケ」と呼ばれている。
萩山焼(はぎやまやき)
場所:名古屋市 創業:天保年間(1830-1844)〜明治期
尾張藩12代藩主・徳川斉荘がはじめた御庭焼と考えられてきたが、近年の研究により、10代斉朝には既に存在したとも考えられている。城内の庭園にあった蓮池に浮かぶ萩島に築窯された、小規模な〈楽焼〉の窯であった。明治に入っても、名古屋城下で窯印を継承したやきものが一時期存在している。
犬山焼(いぬやまやき)
場所:犬山市 創業:元禄年間(1688-1704)〜明治4年(1871)
江戸中期の元禄年間に開窯した、犬山藩のお庭焼。閉窯・再興を経て、最盛期の文化年間(1804-1830)頃には、中国の〈呉須赤絵〉や尾形光琳の〈雲錦手〉を手本とした、桜や紅葉などの色絵磁器を数多く生産した。明治4年(1871)の廃藩とともに閉窯するが、華麗な茶陶や皿、酒器、花器などは残されている。
【再興】
犬山焼(いぬやまやき) ☆愛知県指定 郷土伝統工芸品
場所:犬山市 創業:明治4年(1871)〜
尾関作十郎信業(初代尾関作十郎)が、廃窯した藩の製陶場を譲り受け、犬山焼の継承を決意、復興させる。翌年には2代目作十郎に譲るが明治24年(1891)に震災により一時廃窯するも、再興。現在は6代目作十郎が活動している。また、犬山焼の現在は、さらに数件の窯元が活躍している。
犬山焼本窯元 尾関作十郎陶房 https://www.inuyamayaki-ozeki.com
常滑焼(とこなめやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:常滑市(知多半島) 創業:平安時代末期〜
知多半島で中世から稼働を続ける「日本六古窯」の一つ。室町時代には大型の甕や壺が大量に生産される大規模な窯業地で、日本各地に流通した。また、江戸時代には茶陶が登場し、名高い〈朱泥〉の急須は、江戸後期に中国の陶器を参考にしたとされる。その伝統は受け継がれており、昭和の3代山田常山(1924-2005)は常滑焼(急須)の人間国宝に指定されている。明治以降は土管・焼酎瓶、煉瓦・タイル、衛生陶器も生産しており、いまも窯業がさかんな土地である。
とこなめ焼協同組合 http://www.tokonameyaki.or.jp
補記:知多半島のやきものの歴史は古く、縄文・弥生時代の土器が出土。古墳時代には須恵器が焼かれるようになっており、中世の常滑窯へとつながっている。ちなみに、中世の常滑焼(主に壺・甕)を「古常滑」と呼んでいる。
渥美焼(あつみやき)
場所:渥美半島 創業:平安時代末期〜鎌倉時代
渥美半島で焼かれた、猿投窯の流れを汲むやきもの。半島全域に500基以上の古窯跡が見つかっており、山茶碗を中心に、壺・甕・鉢が出土。常滑焼と同時期に始まったと考えられるが、鎌倉時代には途絶え、現在も研究が進められている、謎の多いやきもの。国宝《秋草文壺》が有名。
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岐阜のやきもの
美濃焼(みのやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:多治見市・土岐市・瑞浪市 創業:平安時代〜
岐阜県美濃地方東部・東濃地方のやきものの総称。平安時代は須恵器、鎌倉〜室町時代には山茶碗(無釉)が焼かれ、室町時代の大窯による施釉陶器に移行した。桃山時代の茶陶隆盛時には、古田織部らの先導で〈志野・織部・黄瀬戸・瀬戸黒〉などを創造。近代以降も、荒川豊藏をはじめ多くの陶芸家が集まり、窯元と陶芸家の活動の両方が盛んな大窯業地となっている。
美濃焼伝統工芸品協同組合 https://www.minoyaki.gr.jp
志野焼(しのやき)
場所:可児市、他 創業:天正年間(1573-1592)〜江戸時代、昭和7年(1932)〜
美濃焼の一種。〈長石釉〉による白濁の陶器で、桃山時代に創始されるも、江戸時代には衰退したと考えられる。無地志野の他、国宝の志野茶碗《卯花墻》は絵志野、鉄化粧の鼠志野、さらに赤志野、練込志野など多彩。近代に荒川豊蔵が牟田洞古窯跡(可児市)で志野の陶片を発見、志野焼の再現に成功した。その後、豊蔵は志野焼の人間国宝に指定され、現在は多くの窯元や作家が制作している。
荒川豊蔵資料館 https://www.city.kani.lg.jp/10013.htm
織部焼(おりべやき)
場所:土岐市、他 創業:慶長10年(1605)頃〜元和年間(1615-1624)、江戸時代末期〜
千利休の高弟「利休七哲」の一人・古田織部の好みで焼かれた、自由で大胆な文様やフォルムが特徴のやきもの。茶器の他に食器類も作られ隆盛したが、古田織部の切腹後は衰退。代表的な銅の〈緑釉〉による青織部が代表的だが、赤織部、黒織部や織部黒、鳴海織部など多彩。その後は江戸後期、瀬戸赤津の名工・加藤春岱が焼いたものが残っており、以降現在まで多くの窯元や作家が制作している。
太白焼(たいはくやき)
場所:多治見市、他 創業:江戸後期〜明治期?
瀬戸の加藤民吉(瀬戸の磁祖と呼ばれている)が、肥前から染付磁器の技術を持ち帰り、瀬戸および美濃に広めた。この美濃の〈染付〉のうち、初期の半磁器(炻器)のものを太白焼と呼んでいる。太白(太白星)は白く輝く金星のこと。磁器の登場により、太白焼は衰退していったが、近代の美濃磁器の原点として注目される。
西浦焼(にしうらやき)
場所:多治見市市之倉 創業:明治20年(1887)〜明治末期
多治見の陶商・西浦家のもとで、欧米向けの輸出陶磁器として焼かれたもの。明治初め、美濃焼は庶民向けとされ、美術工芸品としての評価が低かったことを憂いた3代圓治が工場を設立、美濃の名工・加藤五助を制作主任とした。華麗な染付や上絵付け・釉下彩の〈色絵吹絵〉などで世界的な評価を得たが、5代の時に閉窯した。
温故焼(おんこやき)
場所:大垣市赤坂町 創業:文化年間(1804-1818)〜昭和中期?
楽や備前、さらに桑名の森有節で学んだ清水平七(号:温故)が開窯。別名「美濃萬古」。金生山の赤土と御勝山の白土を混ぜて作った素地に、金銀材や線刻などの装飾を施したものが特徴。煎茶器を中心に花器や酒器などを作り、最盛期には数多くの陶工を輩出した。清水温故は4代まで継承。
小糸焼(こいとやき)
場所:高山市 創業:寛永年間(1624-1644)〜天保年間(1831-1845)
飛騨藩主が茶道宗和流の開祖・金森宗和の斡旋を得て、京の陶工・竹屋源十郎を招聘、寛永年間(1624-1644)に小糸坂(現在の高山市上岡本町)に開窯したのが始まりとされる。しかし、すぐに閉窯となってしまう。さらに天保年間(1831-1845)に再興を試みるも、こちらもすぐに閉窯した。〈伊羅保釉〉が代表的。
【再興】
小糸焼(こいとやき) ☆岐阜県郷土工芸品
場所:高山市 創業:昭和21年(1946)〜
高山出身の長倉三朗が、瀬戸の加藤春二に師事した後、昭和に復興した第3期小糸焼。戦後、小糸(現在の高山市上岡本町)に登窯を築窯した。現在は4代目当主が伝統を守っている。
小糸焼 窯元 https://koitoyaki.jp
渋草焼(しぶくさやき) ☆岐阜県郷土工芸品 ☆高山市指定 有形民族文化財
場所:高山市 創業:天保12年(1841)〜
飛騨郡代が瀬戸の陶工・戸田柳造を招聘し、焼かせたことが始まり。地元の渋草陶石を使用し、〈飛騨九谷・飛騨赤絵〉と呼ばれる陶磁器を制作した。飛騨は幕府の天領地であったため幕末時に衰退するも、明治政府の勝海舟等の関わりもあって、明治11年(1878)に「芳国舎」が設立され、再興。白磁に染付、赤絵などで、独特の渋草調を生みだしている。
芳国舎 http://www.shibukusa.co.jp
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