九州南部・沖縄エリアの「やきもの」紹介
update:2025/04/16
九州南部・沖縄エリアにある「○○焼」を紹介します。
*一般的に流通している情報をまとめたものであり、諸説や最新の研究成果により、内容が異なる可能性があります。
*掲載情報は、各地の市町村や美術館・やきもの組合が公表している解説、および辞典や関連書籍、
窯元が公表している窯の歴史、学術論文などを参考にしています。
*かつてあった「やきもの」で、現在は閉窯しているものも含まれます。
宮崎 | 鹿児島 | 沖縄
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宮崎のやきもの
小松原焼(こまつばらやき)
場所:都城市小松原、宮崎市 創業:万延年間(1860-1861)〜
都城領主が、薩摩焼苗代川系の陶工・朴休丹(田中休丹)を招聘、小松原に開窯。第二次大戦に途絶えたが、昭和44年(1969)に宮崎市で再興。現当主は田中丹山(15代朴平意)。苗代川焼の技法を継承しつつ、独自の〈蛇蠍〉〈鈍甲肌〉が特徴。
補記:現在の朴家による小松原焼以前も、都城では薩摩焼の流れを汲むやきものがあった。天明元年(1781)と嘉永5年(1852)に領主主導で開窯されたのだが、いずれも長くは続かなかったのである。後者の窯は明治期に民窯となり、その後は朴家が引き継ぎ、移窯した。
補記2:朴平意と薩摩焼については「鹿児島のやきもの」参照。
小峰焼(こみねやき)
場所:延岡市小峰町 創業:寛政年間(1789-1801)〜嘉永年間(1848-1854)
延岡市小峰町で開窯され、短い期間、日用雑器を焼いていた。伝世品も少なく、詳細は不明。登窯跡は市の指定史跡、さらにその陶工の墓が確認されている。
補記:豊臣秀吉の朝鮮出兵後、各地で朝鮮渡来の陶工による開窯があり、小峰焼のルーツも、延岡で同時期に開窯されたものと考えられる。
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鹿児島のやきもの
薩摩焼(さつまやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:姶良市、日置市、鹿児島市 創業:慶長4年(1599)〜
近世以降に薩摩藩内(鹿児島県と宮崎県の一部)で焼かれた陶磁器の総称。豊臣秀吉の朝鮮出兵時に薩摩藩藩主・島津義弘が朝鮮陶工を約80名連れ帰ったことで薩摩焼が誕生した。陶工たちは各地に開窯しており、主に「竪野系」「元立院系」「龍門司系」「苗代川系」「平佐系」の5系統に分類されている。現在は、竪野系・苗代川系・龍門司系が継承されており、豪華絢爛に色絵された錦手の〈白薩摩(しろもん)〉と、鉄分の多い土で黒っぽく、重厚な雰囲気で、日用雑器が主の〈黒薩摩(くろもん)〉が作られている。
薩摩焼協同組合 https://satsumayaki-coop.com
苗代川焼(なえしろがわやき)
場所:日置市美山 創業:慶長4年(1599)〜
苗代川系の薩摩焼。朝鮮渡来の陶工・朴平意が串木野に開窯後、慶長8年(1603)に苗代川(美山)に移窯し、白い陶土を発見したことが始まりとされる。江戸時代には藩の保護を受け、庶民用の日用雑器の黒薩摩を焼く窯と、藩に納める華やかな白薩摩を焼く窯があり、隆盛した。明治以降は民窯となり、現在まで継承されている。
補記:補記*朴平意の末裔:
美山にある荒木陶窯は朴平意の末裔で、現当主の15代荒木秀樹は朴家15代を名乗っている。
荒木陶窯 https://shop.arakitoyo.com
補記*沈壽官の薩摩焼:
苗代川に開窯した陶工たちの一人に沈寿官窯の初代・沈当吉がいた。沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人を務め、幕末に名高い名工・十二代目の沈壽官が登場。明治に入り、数々の万博で作品が受賞し、「Satsuma」は世界的に有名にした人物である。その後、沈家当主は壽官を襲名し、一子相伝で技術を継承、現在は15代沈壽官が活躍している。 沈寿官窯 http://www.chin-jukan.co.jp/introduction.html
竪野焼(たてのやき)
場所:鹿児島市冷水町竪野 創業:慶長6年(1601)〜
竪野系の薩摩焼。薩摩藩主・島津義弘により、瀬戸で日本の茶陶(特に茶入)を学んだ朝鮮陶工の金海(星山仲次)に居館近くの宇都に開窯させたのに始まる。その後、御里に移窯し、薩摩の茶入を作った。次ぎの藩主・島津家久が鹿児島(鶴丸)城に移城にしたのに伴い、元和6年(1620)竪野に移窯、御用窯となった。主に〈白薩摩〉を中心に、島津家が使用する茶道具や日用品や献上品などを制作したと考えられている。
補記*有山長太郎と「長太郎焼」:
明治になり、御用窯が廃窯となったが、御用窯の絵師だった有山長太郎が明治31年(1898)に再興。独立して「長太郎焼」と名乗った。この初代長太郎の系譜が継承している窯元が指宿長太郎焼窯元である。
指宿長太郎焼窯元 http://ibusukichotaro.com
龍門司焼(りゅうもんじやき)
場所:姶良市加治木町 創業:慶長13年(1608)頃〜
龍門司系の薩摩焼。朝鮮陶工の卞芳仲と何芳珍が加治木龍口坂に開窯したのが始まりとされる。芳珍の孫で後継者となった小右衛門(山元碗右衛門)は、加治木で良質な陶土を発見し、元禄1年(1688)に龍門司に移窯した。〈黒薩摩〉の日用雑器を中心に作られ、窯周辺は「茶碗屋集落」となり、地域で継承されていった。昭和23年(1948)には、伝統の共同窯による制作から組合を作り、現在も共同で製造・販売をしている。
龍門司焼協同組合 http://new-site.ryumonjiyaki.jp
元立院焼(げんりゅういんやき)
場所:姶良市西餅田 創業:寛文3年(1663)〜延享3年(1746)
元立院系(西餅田系)の薩摩焼。修験者の小野元立によって、西餅田に開窯したとされる。〈黒薩摩〉の日用雑器が中心で、〈白蛇蝎釉・黒蛇蝎釉〉が有名。5代元立が龍門司に移って閉窯した。
平佐焼(ひらさやき)
場所:薩摩川内市平佐 創業:安永5年(1776)〜昭和16年(1941)
平佐系、磁器の薩摩焼。今井儀右衛門が有田の陶工を招聘して脇本に開窯、染付白磁を焼いたのがはじまり。しかし数年で廃窯となり、天明6年(1786)頃に平佐郷(薩摩川内市)の領主・北郷家の御用窯として再興され、〈赤絵・染付〉〈べっ甲手〉などの優れた装飾磁器が作られた。江戸末期には薩摩焼史上最大級の規模を誇ったと考えられている。明治に入ると北郷家の援助が途絶えて衰退、名工・向井勘兵衛の死去と共に廃窯となった。
能野焼(よきのやき)
場所:札幌市 創業:宝永・正徳年間(1704-1715)〜明治35年(1902)
苗代川系の陶工が開窯したと考えられるが、諸説あって詳細は不明。鉄分の含まれる陶土による無釉焼締や天然素材による灰釉で日用雑器が作られた。明治に入ると土管の生産に移行するようになり、廃窯となった。
【再興】
能野焼/種子島焼(たねがしまやき)
場所:種子島 創業:昭和46年(1971)〜
途絶えていた熊野焼を再興させようという地元が、陶磁学者で陶芸家の小山冨士夫に相談したことから始まる。小山は唐津の陶芸家・中里隆を紹介、二人で再興に取り組んだ。中里は島の鉄分を含んだ土を用い、丈夫で素朴な風合いのやきものを焼き、それは小山により「種子島焼」と呼ばれるようになった。
補記:中里隆は3年間という条件で種子島に移窯、2人の弟子を取った。現在は種子島焼もしくは熊野焼の窯元が複数活躍している。
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沖縄のやきもの
壺屋焼(つぼややき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:那覇市壺屋、読谷村 創業:天和2年(1682)〜
那覇市壺屋と読谷村を中心に焼かれる陶器の総称。琉球では古くから中国や南方諸国の陶法の伝播あったと考えられ、様々な陶磁器が焼かれていた。天和2年(1682)、琉球王府は、知花や湧田など各地の窯を牧志村の壺屋地区に統合・保護。名工として名高い、“琉球陶器中興の祖”仲村渠致元(なかんだり ちげん;1696-1754)は、王命で薩摩へ研修に行っている。明治に入ると王府の保護が無くなり、本土から安価な陶磁器が流通したこともあって徐々に衰退。しかし大正期に民藝運動の浜田庄司や柳宗悦が壺屋焼を紹介、中でも浜田庄司は度々壺屋に滞在し、大きな影響を与えた。
壺屋陶器事業協同組合 https://tuboya.com
補記*金城次郎と読谷村:
昭和47年(1972)、人間国宝・金城次郎らが公害問題で登窯が使えなくなった壺屋から読谷村に移窯し、陶芸村「やちむんの里」をつくった。そちらは「読谷壺屋焼」とも呼ばれる。また、共同窯も築窯され、「読谷山焼(ゆんたんざやき)」と名付けられている。
補記:壺屋の東側には上焼の陶工を集めて東ヌ窯(アガリヌカマ)を、南側に荒焼の陶工を集めて南ヌ窯(フェーヌカマ)を築窯(拝領窯)。東ヌ窯は昭和49年(1974)閉窯、窯も含む新垣家住宅全体が国の重要文化財であり、老朽化で倒壊したが復元された。また南ヌ窯は平成4年(1992)に閉窯、沖縄県指定文化財。
上焼(じょうやき)
場所:那覇市壺屋、読谷村 創業:天和2年(1682)〜
壺屋焼の一種。白化粧し、線刻や絵付けする施釉陶器。日用雑器や泡盛用の抱瓶(だちびん)やカラカラなどが作られている。大正期の民藝運動で注目を浴び、現在の壺屋焼はほぼ上焼となっている。赤絵の魚文線彫りが代表的。なかでも金城次郎はこの伝統技法を好んで制作し、沖縄初の人間国宝(琉球陶器)に指定された。
荒焼(あらやち)
場所:那覇市壺屋 創業:天和2年(1682)〜
壺屋焼の一種。黒土あるいは赤土を用いた無釉焼締、または鉄分を含む泥釉を薄く掛けて焼き締めたもの。別名「琉球南蛮焼」。琉球王府時代は叩きづくりの大物成形による水甕やみそ甕・酒甕を中心に作られていたが、明治以降は泡盛壺が中心に。戦前までは7〜8割は荒焼の陶工であったが、現在は需要の低下により、ほとんど生産されていない。
アカムヌー
場所:那覇市壺屋 創業:天和2年(1682)〜昭和初め?
壺屋焼の一種。小型のフースー窯で低温焼成する陶質土器。土鍋やヤカン、七輪、花鉢などが作られた。現在は作られていない。
湧田焼(わくたやき)
場所:那覇市泉崎 創業:16世紀?〜天和2年(1682)
琉球王国時代に窯業の里であった湧田村(那覇市泉崎)の古窯。当初は瓦の生産だったが、元和2年(1616)に薩摩の朝鮮人陶工を招き、陶器生産が始まった。荒焼・上焼の窯がそれぞれの窯があったと考えられる。壺屋焼のルーツであり、天和2年(1682)の王府による窯場の統合まで続いた。
知花焼(ちばなやき)
場所:沖縄市知花 創業:16世紀?〜天和2年(1682)
琉球王国時代に美里村知花(沖縄市)の古窯。南方系陶器で甕や鉢類が中心。壺屋焼のルーツの一つと言われる。
宝口焼(たからぐちやき)
場所:那覇市宝口 創業:?〜天和2年(1682)
現在まで窯跡が発見されておらず、開窯期も含め詳細不明。陶工の平田典通が開窯し、首里城正殿の屋根に置かれた「五彩竜頭」を制作したと伝えられている。天和2年(1682)の王府による窯場の統合で閉窯したと考えられる。
補記:平田典通(1641-1722)は、王命で中国・清に渡り、赤絵の技法を学んだと言われている。
喜名焼(きなやき)
場所:読谷村喜名 創業:1670年代?〜?
沖縄最古と言われる古窯。開窯および閉窯期は不明。荒焼の甕・壺・すり鉢・碗、瓦などが焼かれた。
古我知焼(こがちやき)
場所:名護市古我知 創業:17〜19世紀?
古窯跡が発見されているが、文献資料がなく、開窯期・閉窯期も含め詳細不明。陶工・平田典通が開窯したとの説もある。湧田焼や初期壺屋焼に類似しているが、釉薬を布や藁などで拭きながら塗る〈布拭き・藁拭き〉は独自のもので特徴的といえる。
八重山焼(やえやまやき)
場所:石垣市 創業:享保9年(1724)〜昭和初期
八重山(主に石垣島)で焼かれた陶器の総称。王命により、仲村渠致元(なかんだり ちげん)が享保9年(1724)に開窯、3年ほど滞在し、上焼を広めた。
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