関西エリアの「やきもの」紹介
update:2025/04/16
関西エリアにある「○○焼」を紹介します。
*一般的に流通している情報をまとめたものであり、諸説や最新の研究成果により、内容が異なる可能性があります。
*掲載情報は、各地の市町村や美術館・やきもの組合が公表している解説、および辞典や関連書籍、
窯元が公表している窯の歴史、学術論文などを参考にしています。
*かつてあった「やきもの」で、現在は閉窯しているものも含まれます。
京都 | 大阪 | 兵庫 | 奈良 | 三重 | 滋賀 | 和歌山
→ 全やきもの名称を検索できる全国の「やきもの」一覧(一覧表の並び替え可)はこちら
京都のやきもの
京焼(きょうやき)
場所:京都市 創業:江戸時代初期〜
「京焼」とは江戸以降の京窯のやきものの総称(楽焼を除く)。対して、「清水焼」は五条坂(清水寺参道)で焼かれたことから呼ばれた。近世という時代に名を残す陶工が次々と登場したことも特徴的。
補記*近世の京焼陶工:
■野々村仁清:京焼の色絵陶器を完成 ■尾形乾山:琳派、銹絵陶器 ■奥田頴川:磁器を成功させ、中国陶磁に倣った色絵磁器 ■青木木米:文人画の絵付け ■仁阿弥道八:写しの天才あるいは洒脱で独創的な作風 ■永楽保全:交踶や金襴手
古清水(こきよみず)
場所:京都市五条坂 創業:江戸時代初期〜後期
「清水焼」は江戸初期、陶商の茶碗屋久兵衛(壺屋久兵衛)が清水・五条坂に開窯したのが始まりと言われる。以後、江戸後期に京焼に磁器が登場するまでの色絵陶器・銹絵陶器・染付陶器を総称して「古清水」と呼んでいる。野々村仁清や尾形乾山が代表的で、粟田口・音羽・清閑寺・清水などに窯場があった。
粟田焼/粟田口焼(あわたやき/あわたぐちやき)
場所:京都市三条 創業:江戸時代初期〜昭和中期
京焼・清水焼の最初期から存在し、古清水の代表的窯場。中でも「錦光山」は有名で明治期には輸出陶器で隆盛したが、大正期には凋落。戦後には、粟田の火は途絶えている。
京薩摩(きょうさつま)
場所:京都市三条 創業:明治期〜昭和中期
鹿児島の薩摩焼が欧米で人気を博したことを受け、粟田口の窯元でも、輸出用として〈薩摩金襴手様式〉を制作、明治期に隆盛した。鹿児島の「本薩摩」に対して、「京薩摩」と呼ぶ。素地も本薩摩が淡黄色であるが、京薩摩はたまご色。特に七代錦光山宗兵衛が有名で、「錦光山」ブランドとして欧米に輸出された。
御室焼(おむろやき)
場所:京都市御室 創業:正保3年(1646)頃〜元禄1年(1688)頃?
古清水の一つで、野々村仁清が御室の仁和寺門前で開窯した窯。仁清死後は2代目清右衛門が継承するも凋落していったと考えられる。
補記:永楽和全は嘉永年間(1848-54)に、途絶えていた御室窯に移窯し再興した時期がある。
乾山焼(けんざんやき)
場所:京都市鳴滝 創業:元禄年間(1688-1704)〜享保16年(1731)?
尾形乾山が鳴滝で開窯した窯。琳派の意匠が人気となったが、晩年の乾山は江戸へ下っており、閉窯した。
京焼・清水焼(きょうやき・きよみずやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:京都市五条坂・清水焼団地、他 創業:江戸時代初期〜
京焼と清水焼は現在、厳密な技術的区分がなく、経済産業省指定の伝統的工芸品では「京焼・清水焼」として登録された。
京都陶磁器協同組合連合会 https://kyoyaki.com
楽焼/樂焼(らくやき)
場所:京都市上京区 創業:桃山時代(16世紀末)〜
千利休の指導で、樂家初代長治郎が創始、当主は代々樂吉左衞門を名乗り一子相伝、現在は16代目。中でも歴代随一の名工と言われるのが3代目の道入(のんこう)。手捏ね(てづくね)で作られ、内窯(室内の小型窯)での低温焼成する軟質施釉陶器。茶陶、主に茶碗が中心。また広義の楽焼は、大樋焼などの樂家の脇窯も含まれる。
樂美術館(樂家) https://www.raku-yaki.or.jp
補記:国宝《不二山》で知られる本阿弥光悦は、親交のあった樂家で茶碗を焼いたとされる。
玉水焼(たまみずやき)
場所:井手町玉水 創業:江戸初期〜明治初期
樂家4代一入の庶子・一元が開窯。「楽焼」脇窯のうち、樂家の血筋を継ぐ窯であったが、すぐに血統は途絶え、その後は弟子が続けた。明治の初めに8代目で廃窯。現在も不明な点の多い窯であり、最盛時は茶道具を多く手がけていたものの、作者の特定は難しい。
補記:樂家代々を本窯とし、その傍系の楽焼を脇窯と呼ぶ。樂家の血筋が開いた玉水焼と、加賀に招聘されて開窯した大樋焼が代表的。
朝日焼(あさひやき)
場所:宇治市 創業:慶長年間(1596-1615)〜
宇治の朝日山麓に初代陶作が開窯。茶人・小堀遠州の指導を受け、窯名として「朝日」を与えられており、遠州七窯に数えられる。一時中断を余儀なくされたこともあったが、当代の16世松林豊斎まで継承。宇治の陶土にこだわり、初期のころは茶の湯であったが、煎茶の流行に合わせて煎茶器を制作、現在まで続いている。
朝日焼(窯元) https://asahiyaki.com/
→ ページトップに戻る
→ 全国の「やきもの」一覧
※ 関連記事:窯元やショップ、美術館、イベントなど、「京都のやきものスポット情報」もオススメ!
大阪のやきもの
古曽部焼(こそべやき)
場所:高槻市古曽部町 創業:寛政年間(1789-1801)〜明治43年(1910)頃
京焼を学んだ五十嵐新平が開窯、五十嵐家の家業として生産された窯。京焼風の茶器や、備前や唐津などの写しを制作した。現在も登窯跡が残されており、最盛期には京阪の文人や料亭の注文で大量生産もしていたと考えられている。4代の時の廃窯。
高原焼(たかはらやき)
場所:能勢町 創業:元和1年(1615)頃?〜寛政年間(1789-1801)
肥後(熊本)の高原藤兵衛が大阪の能勢ではじめたやきもの。後に片桐石州に推挙されて徳川家綱の茶碗師として浅草に開窯し、この「江戸高原焼(浅草焼)」は藤兵衛死後も続いた。ただし、高原焼に関しては現在も伝世品が多く残されているものの、異説も多く、詳細は不明。
明山薩摩(めいさんさつま)
場所:大阪市中之島 創業:明治13年(1880)〜昭和初期
絵師・藪長水の子である藪明山(1853-1934)が陶器描画場を設立、薩摩より素地を取り寄せ、輸出用に上絵付けを施した。明山工房製の「薩摩焼」の上絵付けは緻密な細密画で、国内外で人気に。「明山焼」あるいは「大阪焼」と呼ばれることも。
→ ページトップに戻る
→ 全国の「やきもの」一覧
※ 関連記事:窯元やショップ、美術館、イベントなど、「大阪のやきものスポット情報」もオススメ!
兵庫のやきもの
丹波立杭焼(たんばたちくいやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:今田町上立杭 創業:平安時代末期〜
日本六古窯の一つ。「丹波焼」や「立杭焼」と呼ばれたが、現在は「丹波立杭焼」に統一し、伝統的工芸品に登録した。初期の穴窯時代(中世)は壺・甕・擂鉢が主流であったが、登窯時代になると、器種も技法も多種多様となり、時代によって変遷している。江戸時代初期は〈赤土部(あかどべ)〉が代表的、中期には丹波焼を代表する様々な意匠の徳利が登場。後期には名工も登場して湯呑・鉢・徳利・花瓶など、末期には〈白丹波〉が多く作られている。明治期には酒や醤油用の大型徳利が主流となり、昭和に至って徐々に衰退していったが、現在は多くの窯元により復興を果たし、古き良き「陶の里」の風情が残る人気の窯業地となっている。
立杭 陶の郷 https://tanbayaki.com
王地山焼(おうじやまやき)
場所:丹波篠山市 創業:文政元年(1818)〜明治2年(1869)
篠山藩主が京の名工・欽古堂亀祐を招聘して始まった藩窯。磁器窯として、〈青磁〉や〈染付〉の名品が数多く制作された。嘉永年間(1848~54)に最盛期を迎えたが、徐々に衰退し、廃藩置県とともに明治2年に廃窯。わずか50年程度であり、藩窯であったため流通も少なく、現在では幻のやきものと言われている。
【再興】
王地山焼(おうじやまやき) ☆兵庫県指定 伝統的工芸品
場所:丹波篠山市 創業:昭和63年(1988)〜
廃窯から約120年、地域活性化の取り組みの一つとして復興が計画され、当時の篠山町が王地山陶器所を整備・再興された。当時の技法に倣い、緑を帯びた独特の色味の〈青磁〉が代表的。他に染付や赤絵作品が制作されている。
王地山陶器所 http://ojiyamayaki.com
出石焼(いずしやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:出石町 創業:寛政1年(1789)?〜
一説には平戸の陶工を招聘して磁器の焼成に成功させたのが始まりと言われる。寛政11年(1799)からは藩窯となり、城下で磁器の陶石も発見。天保年間(1830-1844)には最盛期を迎えた。安政年間(1854-59)に活躍した染付師の鹿児島屋粛平は多くの優品を生み出し、現在も垂涎の的である。しかし、江戸期に開窯した窯元の大半は幕末までに閉窯し、明治になって地域の事業を振興させるため盈進社が設立、一躍出石磁器が有名となったが、明治18年(1885)に廃業してしまう。しかし、現在まで窯業地として煙が途絶えることもなく、現在も4軒の窯元が存在、〈白磁〉を中心に出石焼を制作している。
出石焼陶友会 https://www.izushi.co.jp/izushiyaki/
三田焼(さんだやき)
場所:三田市 創業:宝暦年間(1751-1764)〜昭和10年代(1935)
三田市一帯で焼かれていた陶磁器の総称。宝暦年間(1751-1764)に白化粧の陶器が焼かれたのが始まりとされ、寛政年間(1789-1801)には内田忠兵衛が青磁を完成させた。これが名高い〈三田青磁〉で、天保年間(1830-1844)に最盛期を迎えるが、衰退していき、昭和10年代には閉窯した。
補記:三田青磁は、中国・龍泉窯の青磁、韓国の高麗青磁と並ぶ、世界三大青磁とも称することがある。
東山焼(とうざんやき)
場所:姫路市東山 創業:文政5年(1822)〜明治21年(1888)頃
文政5年(1822)、興禅寺山東麓に開窯。別名「姫路焼」。天保2年(1831)に姫路藩の御用窯となり、男山八幡宮参道脇に移窯した。興禅寺山窯では〈青磁〉〈染付〉、男山窯では〈染付〉が中心に、磁器から陶器まで多種多様に焼かれた。当時の流行の京焼風の意匠や〈古染付写し〉〈祥瑞写し〉など、良質な伝世品がある。明治期に民窯となり、明治10年(1877)に永世舎を設立。輸出用の色絵磁器が制作されたが、10年程度で閉窯となった。
雲火焼(うんかやき)
場所:赤穂市 創業:嘉永5年(1852)〜明治37年(1904)
篠山藩主が京の名工・欽古堂亀祐を招聘して始まった藩窯。磁器窯として、〈青磁〉や〈染付〉の名品が数多く制作された。嘉永年間(1848~54)に最盛期を迎えたが、徐々に衰退し、廃藩置県とともに明治2年に廃窯。わずか50年程度であり、藩窯であったため流通も少なく、現在では幻のやきものと言われている。
【再興】
赤穂雲火焼(あこううんかやき) ☆兵庫県指定 伝統的工芸品
場所:赤穂市 創業:昭和62年(1987)〜
昭和54年(1979)頃から桃井香子・長棟州彦によって復元の取り組みが始まる。文献陶もなく、手探りで研究が進み、昭和62年「第1回雲火焼研究発表会」にて発表。赤穂雲火焼として郷土工芸品となる。
赤穂雲火焼(窯元) http://www.unkayaki.com/01_unkayakitoha.html
神戸薩摩(こうべさつま)
場所:神戸市 創業:明治初期〜昭和中期
明治に隆盛した輸出薩摩の一つ。輸出港がある神戸にあった窯元「司山」「精巧山」が有名。また湊光が陶磁器絵付業を創業、九谷から絵師を集めた。これは別名「湊光焼(そうこうやき)」と呼ぶこともある。
珉平焼(みんぺいやき)
場所:淡路島 創業:文政年間(1818-1830)〜明治中期
京焼の名エ・尾形周平に学んだ賀集珉平が南淡町伊賀野(南あわじ市)に開窯、淡路島の良質な白土を用いた。別名「伊賀野焼」「淡路焼」。仁清や道八の写しなど京焼風の名品が数多く残されており、全国に広く流通。天保10年(1839)には阿波藩の「御用御陶師」を許された。しかし珉平死後は民窯となるも、明治期にはいって衰退。明治18年(1885)に淡陶社(だんとうしゃ)を設立してタイル生産をはじめて再建。現在もタイル業はダントーホールディングに引き継がれている。
自凝焼(おのころやき)
場所:淡路島 創業:明治初期〜大正期
珉平焼の窯元から独立した田村久平・福平の兄弟が開窯。東京・ワグネルの「旭焼」を手本にした上絵付けの輸出陶磁器。自凝(磤馭盧;おろころ)は、日本神話における伊邪那岐命・伊邪那美命の国生みから来ており、淡路島の別名。
→ ページトップに戻る
→ 全国の「やきもの」一覧
※ 関連記事:窯元やショップ、美術館、イベントなど、「兵庫のやきものスポット情報」もオススメ!
奈良のやきもの
赤膚焼(あかはだやき) ☆奈良県指定 伝統的工芸品
場所:奈良市赤膚町・五条山 創業:江戸時代初期?〜
始まりは埴輪や土器、奈良時代以後は日常雑器の生産と考えられるが詳細は不明。文献資料は天正年間(16世紀後半)以後で、いわゆる赤膚焼は江戸時代から。中興の祖・奥田木白は様々な茶陶で名声を高めた。明るく素朴な画風の〈奈良絵〉が代表的であるが、現在は窯元によって多種多様の作風が作られている。
→ ページトップに戻る
→ 全国の「やきもの」一覧
※ 関連記事:窯元やショップ、美術館、イベントなど、「奈良のやきものスポット情報」もオススメ!
三重のやきもの
伊賀焼(いがやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:伊賀市丸柱、他 創業:平安時代?〜
平安末期には窯業地であったと考えられ、中世には近隣の信楽と同様、擂鉢や甕、壺が焼かれた。桃山時代の茶の湯の隆盛時には伊賀の領主だった藤堂高虎や武将で茶人の古田織部の指導で、個性的な茶陶の〈破調の美〉と呼ばれる水指や花器が作られた。窯の中で灰をかぶることで生まれる緑のガラス質の〈ビードロ〉が特徴的。江戸時代中期に一時期衰退、18世紀中頃に再興、現在は伊賀市丸柱を中心に窯元が集まり、土鍋や食器、茶陶など多岐にわたって作られている。
伊賀焼振興協同組合 http://www.igayaki.or.jp
補記:桃山から江戸時代の茶陶を「古伊賀」、18世紀中頃の日常雑器を「再興伊賀」とも呼ぶ。
萬古焼(ばんこやき)
場所:四日市市・桑名市、他 創業:元文年間(1736-1741)〜
江戸中期、桑名の沼波弄山が創始、その後中断・復興、さらに各地に拡散した、一連の陶磁器の総称。名称は、弄山が窯印として「万古」あるいは「万古不易」を押したことから来ている。異国趣味の斬新な色絵が特徴的。
古萬古(こばんこ)
場所:朝日町小向 創業:元文年間(1736-1741)〜安永6年(1777)
「萬古焼の祖」沼波弄山(ぬなみろうざん)が朝日町小向に開窯。桑名の豪商あり、で茶人の趣味ではじめたやきものであった。更紗などの中国風やオランダ風など〈異国風意匠の赤絵〉が独特であり、異彩を放っていた。しかし弄山死後は廃窯。この弄山のものを「古萬古」と呼び、後の万古と区別している。
補記:弄山は将軍家の御用も受け、江戸・小梅にも開窯。こちらを江戸萬古と呼ぶが、桑名の土を使用して、桑名の陶工が制作したため、区別はできないとされる(「東京のやきもの」も参照)。
有節萬古(ゆうせつばんこ)
場所:朝日町小向 創業:天保3年(1832)〜明治期?
沼波弄山から30年余り、桑名商人の森有節・千秋の兄弟が、萬古焼の再興に取り組み、小向に開窯。当初は古萬古の写しから始まったが、木型成形や粉彩(軟彩)絵付など、独自の作風や技法を生み出していく。中でも鮮やかなピンクの〈腥臙脂釉(しょうえんじゆう)〉は有節作品の代表的存在。この有節兄弟が再興した萬古焼を「有節萬古」、そして森有節を“萬古焼中興の祖”と呼んでいる。なお、後継者として3代森有節までは作品が確認されている。
補記:この木型成形の萬古焼(型萬古)によって、急須や土瓶が大量に生産され、直後に桑名萬古、また遠く福島の二本松萬古、そして四日市萬古につながっていった。
桑名萬古(くわなばんこ) ☆三重県指定 伝統工芸品
場所:桑名市 創業:嘉永1年(1848)〜
有節萬古の急須木型の注文を受けた佐藤久米造が、型の秘密を知り、類似品を作るようになった。この有節萬古の傍流を桑名萬古と呼ぶ。昭和になると、四日市萬古の大量生産に押されて衰退したものの、現在も数名の窯元・作家がおり、現在は芸術性の高い古萬古の伝統技法を元にした作家活動が目立っている。
四日市萬古焼(よっかいちばんこやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:四日市市 創業:江戸末期〜
桑名の萬古焼人気に刺激され、困窮していた村を救うために、村役の山中忠左衛門が萬古焼の生産を試みたことがはじまり。以降、村人らが萬古焼制作に続き、すぐれた陶工も誕生。さらに流通の発達により、国内外に販路を作り、現在に至る地場産業の基板が作られた。当初は羽津や安倉川の白土を使用して木型で作られていたが白土が枯渇。その後は美濃の温故焼に学んで赤土のロクロ成形に移行。やがて、現在の四日市萬古焼を代表する〈紫泥急須〉が誕生した。また、土鍋は全国シェア8〜9割を占めている。
萬古陶磁器工業恊同組合 https://banko.or.jp/
補記:現在の萬古焼の中心地は四日市であり、国の伝統的工芸品に登録されているのも「四日市萬古焼」である。
安東焼(あんとうやき)
場所:津市安東 創業:寛保年間(1741-1744)〜安永6年(1777)頃
津藩が沼波弄山の弟子・瑞牙(ずいが)を招聘、津城下の安東に開窯。古萬古風の他、素焼きの素地の一部に絵付けや彫り文様を施した独自の茶陶が焼かれた。しかし瑞牙の一代の短い期間で閉窯となり、特に「古安東」と呼ばれている。
阿漕焼(あこぎやき) ☆三重県指定 伝統工芸品
場所:津市安東 創業:天保年間(1830-1844)〜
津藩が安東焼の再興をはかり、倉田久八が信楽の陶工の協力で開窯。別名「再興安東」。〈千鳥文〉が特徴的。しかし明治に入ると藩の支援もなく、明治中期に閉窯。その後、いくつもの窯によって興亡を繰り返した。現在、阿漕焼の継承者は1名となっている。
→ ページトップに戻る
→ 全国の「やきもの」一覧
※ 関連記事:窯元やショップ、美術館、イベントなど、「三重のやきものスポット情報」もオススメ!
滋賀のやきもの
信楽焼(しがらきやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:信楽町 創業:平安末期〜
日本六古窯の一つ。聖武天皇が紫香楽宮造営時に焼かれた瓦や須恵器がこの地の窯業の起源とされる。現在の信楽焼としての始まりは中世で、壺・甕・擂鉢が大量に焼かれ、信楽町一帯に200以上の古窯跡が確認されている。室町から桃山時代の茶陶、江戸時代には梅壷・みそ壷・徳利・土鍋などを生産。信楽の〈無釉焼締〉は、窯の中で薪の灰が溶けてとろりと掛かった〈自然釉〉や素地が赤く発色した〈火色(緋色)〉が特徴的。現在も日本を代表する窯業地として多くの窯元が集まっており、食器・茶器からエクステリアまで、器種も多彩。
信楽陶器工業協同組合 https://www.593touki.jp
膳所焼(ぜぜやき)
場所:大津市 創業:江戸初期〜明治初期
遠州七窯の一つで、茶人・小堀遠州の支援を受け、膳所藩主が開窯させた御用窯。当初は献上用として茶器を中心に制作された。中でも中興名物に入っている茶入《大江》《白雲》が有名。しかし、江戸後期になると衰退、民窯に転換となり、土瓶など日用雑貨が焼かれたが、明治にはいって廃窯となった。
膳所焼美術館 https://zezeyaki.or.jp
補記:「膳所(ぜぜ)」は大津市にあった地名であり、魚介類を朝廷の食膳に納める所とされたことに由来している。また、大津では古墳時代の須恵器の窯跡が発見されており、窯業そのものの歴史は古いと考えられる。
【再興】
膳所焼(ぜぜやき) ☆滋賀県指定 伝統的工芸品
場所:大津市 創業:大正8年(1919)〜
地元の名士である岩崎健三が、日本画家・山元春挙や京焼の名工・二代伊東陶山の協力を得て復興した。現在は膳所焼窯元陽炎園により伝承。伝統の茶器の他、様々な食器類なども制作している。
膳所焼窯元陽炎園 https://www.zeze-art.com/
湖東焼(ことうやき)
場所:彦根市 創業:文政12年(1829)〜明治28年(1895)
彦根商人の絹屋半兵衛が開窯。後に召し上げられて藩窯となり、なかでも13代藩主・井伊直弼は厚く庇護して最盛期を迎えた。瀬戸や九谷・京都など各地から陶工を招聘し、陶器も磁器も制作、技法も〈染付〉〈赤絵〉〈青磁〉など多彩となった。特に赤絵金襴手の磁器の優品が多く、絵付師・自然斎(じねんさい)は名高い。しかし直弼死後(桜田門外の変)は、縮小され、文久2年(1862)に民間に払い下げとなり、再び民窯に戻った。
補記:狭義では藩窯時代のみを「湖東焼」と呼ぶこともある。また、短期間であって数は少なく、明治には既に“幻のやきもの”と呼ばれていた。
→ ページトップに戻る
→ 全国の「やきもの」一覧
※ 関連記事:窯元やショップ、美術館、イベントなど、「滋賀のやきものスポット情報」もオススメ!
和歌山のやきもの
紀州焼(きしゅうやき)
場所:和歌山市、他 創業:元和5年(1619)頃〜明治11年(1878)
紀州焼は、紀州藩で焼かれていた陶磁器の総称で、江戸初期から次々と開窯している。しかし、いずれも明治初期までに廃窯していき、最後の南紀男山焼が明治11年に閉窯して、紀州焼は廃絶した。
補記:「偕楽園焼」「瑞芝焼」「南紀男山焼」を紀州三大窯と呼ぶ。
甚兵衛焼(じんべえやき)
場所:瓦町 創業:元和5年(1619)〜?
紀州藩祖・徳川頼宣の入国とともに、御瓦師・寺嶋甚兵衛が城下の瓦町に開窯したとされる(御茶碗師・原甚兵衛という説もある)。茶器などが作られたが、伝世品が極めて少なく、詳細も不明。
善妙寺焼/善明寺焼(ぜんみょうじやき)
場所:御坊市島 創業:寛延年間(1748-1751)〜宝暦9年(1759)
善妙寺6世住職・玄了が寺の裏山に開窯。藩主に献上したと言われるが、趣味的なものと考えられ、しかもわずか10年程度で伝世品も極めて少ない。
瑞芝焼(ずいしやき)
場所:和歌山市鈴丸丁 創業:寛政8年(1796)頃〜明治9年(1876)頃
藩の許しを得た岡崎屋・坂上重次郎(号:瑞芝)が開窯。城下の鈴丸丁滅法谷にあったため、「鈴丸焼」または「滅法谷焼」とも呼ばれた。特に美しい青緑色の〈青磁〉が代表的で、優品が多い。
偕楽園焼(かいらくえんやき)
場所:和歌山市西浜 創業:文政2年(1819)〜天保7年(1836)?
紀伊藩10代藩主・徳川治宝が別邸・西浜御殿の庭園・偕楽園に築窯した御庭焼。樂家10代樂旦入を招いて楽焼を焼いたのが始まり。その後、永楽保全なども招聘され、楽焼の他に磁器も焼いた。
南紀男山焼(なんきおとこやまやき)
場所:広川町男山南麓 創業:文政10年(1827)〜明治11年(1878)
「男山焼」とも。藩の保護を得た崎山利兵衛が開窯。京焼の名工・欽古堂亀祐の指導を受け、さらに肥前の陶工を雇い、14の焼成室を持った連房式登窯を中心とした、半官半民の工場であった。〈染付磁器〉が代表的で、藩内外に流通。しかし、安政3年(1856)頃に藩の財政悪化で民窯となり、利兵衛没後は一時閉窯。2代目が再興させたが、明治11年に閉窯となった。
【再興】
紀州焼(きしゅうやき)
場所:白浜町 創業:昭和12年(1937)〜
紀州徳川家第16代当主・徳川頼貞が次々と廃窯していく窯元を憂いて、陶芸家・寒川義一(初代 栖豊)が開窯。「葵窯」は頼貞が命名した。独自のマット黒〈那智黒釉〉が特徴的で、さらに廃窯した紀州焼の様々な陶磁器の再現も試みている。現在は2代目。
紀州焼葵窯 https://www.aoigama.com
→ ページトップに戻る
→ 全国の「やきもの」一覧
※ 関連記事:窯元やショップ、美術館、イベントなど、「和歌山のやきものスポット情報」もオススメ!