九州北部エリアの「やきもの」紹介
update:2025/04/16
九州北部エリアにある「○○焼」を紹介します。
*一般的に流通している情報をまとめたものであり、諸説や最新の研究成果により、内容が異なる可能性があります。
*掲載情報は、各地の市町村や美術館・やきもの組合が公表している解説、および辞典や関連書籍、
窯元が公表している窯の歴史、学術論文などを参考にしています。
*かつてあった「やきもの」で、現在は閉窯しているものも含まれます。
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福岡のやきもの
上野焼(あがのやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:福智町上野 創業:慶長7年(1602)〜
千利休の弟子で豊前藩主・細川忠興(三斎)が招聘した、朝鮮渡来の陶工・尊楷(上野喜蔵)が上野に開窯。三斎好みの格調高い茶陶を30年にわたり作った。後に遠州七窯の一つにもあげられ、当時の茶人も愛好。明治の廃藩置県で衰退したが、田川郡の補助で復興した。現在は9窯が活躍、日用雑器なども作っており、人気がある。
上野焼協同組合 https://www.aganoyaki-fukuchi.com
補記:上野喜蔵は、寛永9年(1632)に熊本に転封された細川忠利に伴い、高田に移窯、高田焼を創始した(熊本のやきもの「高田焼」参照)。尚、上野焼は次男の十時孫左衛門(初代)が継承、新藩主に仕えた。 上野焼の十時窯は現在13代目。
田香焼(でんこうやき)
場所:大任町上今任、香春町高野 創業:文政11年(1828)〜明治時代
上野焼陶工が移住して開窯したとされる「上野焼の分流」。小倉藩茶道師範の古市自得斎が指導したと言われているが、70〜80年間ほどしか焼かれておらず、伝世品も少ない。主に日用雑器が焼かれ、三彩や象嵌、緑青釉など上野焼との共通点も多いが、一方で磁器の破片も窯跡から出土している。
高取焼(たかとりやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:東峰村小石原、直方市、他 創業:慶長5年(1600)〜
筑前藩主・黒田長政が招聘した、朝鮮渡来の陶工・八山(高取八蔵)が開窯。高取の名は、築窯した鷹取山にちなんでいる。以後、黒田藩の御用窯として上質な茶陶が作られた。初期のものは織部好みの「破調の美」を特徴としており、「古高取」と呼ぶ。後に茶人大名の小堀遠州の指導により「綺麗寂び」の作風へと変わり、それを「遠州高取」と呼んでいる。遠州七窯の一つで、中興名物の茶入なども有名。現在も茶陶を中心に様々なものが作られている。
補記:高取八蔵は何度も移窯しており、それぞれは十三代髙取八山の「高取焼宗家」、十三代髙取八仙の「高取八仙窯」、十五代亀井味楽の「味楽窯」が継承している他、各地に高取焼窯元が活動している。
高取焼宗家 https://takatoriyaki-souke.com / 髙取八仙窯 http://takatoriyaki.co.jp
高取焼味楽窯 https://takatoriyaki.jp
小石原焼(こいしわらやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:東峰村小石原鼓、皿山 創業:天和2年(1682)〜
黒田藩藩主が高取焼の2代高取八蔵貞明を招聘して鼓に開窯。御用窯的な役割をし、茶陶中心に生産。その後、孫の八之丞貞正が皿山に開窯、主に日用陶器を焼いた。民藝運動の浜田庄司やバーナード・リーチが来訪し、全国的になり、さらに昭和33年(1958)のブリュッセル万博ではグランプリを受賞している。現在も鼓は茶陶、皿山は民陶として〈刷毛目〉〈飛び鉋〉〈櫛描〉などの意匠で知られている。
一の瀬焼(いちのせやき)
場所:うきは市浮羽町朝田 創業:慶長10年(1605)頃〜明治初期
問註所統景が招聘した朝鮮陶工によって開窯したと言われるが、諸説あり、詳細は不明。初期は陶器、文化文政年間(1804-1830)頃からは〈染付磁器〉が量産された。久留米有馬藩の御用窯として隆盛するも、明治に廃窯となった。
【再興】
一の瀬焼(いちのせやき)
場所:うきは市浮羽町朝田 創業:昭和34年(1959)〜
浮羽町(うきは市)が一の瀬焼の再興を図り、九州各地から陶芸家を誘致。当初は町の主導で工房が設立されたが、後に各窯元が独立、それぞれ特徴が異なっている。
釈形焼(しゃかたやき)
場所:八女市黒木町笠原 創業:江戸中期(17世紀末〜18世紀)
笠原の釈形に窯があり、八女茶を入れる葉茶壺を中心に焼いていたと考えられているが、稼働期も含め詳細は不明。伝世品から元禄年間と正徳年間のものが確認されている。
星野焼(ほしのやき)
場所:八女市星野村 創業:正徳4年(1714)〜明治27年(1894)
久留米藩の御用窯として、葉茶壷をはじめ、茶陶から日用雑器まで大量に生産されていた。しかし、明治に入り、藩の支援がなくなったこともあって廃窯したと考えられる。
古陶星野焼展示館 https://www.hoshinofurusato.jp/pottery/
補記:星野村のやきものの興りは不明であり、一説には桃山期に開窯した後に閉窯していたものを江戸中期に再興したのが星野焼という。
【再興】
星野焼(ほしのやき)
場所:八女市星野村 創業:昭和44年(1969)〜
小石原で陶工をしていた山本源太が、古星野の茶壺を見て再興を決意。昭和44年に開窯後、幻の〈夕日焼〉の復元に成功している。その後、さらに2軒の窯元が開窯している。
蒲池焼(かまちやき)
場所:柳川市蒲池 創業:慶長9年(1604)頃〜明治初期
代々土器師の家に生まれ、豊臣秀吉から土器司の朱印状を受けた家永(長)彦三郎が蒲池に開窯。別名「柳川焼」。柳川藩の御用窯として一般には流通させず、主に風炉を焼いた幻の土器。技法的には、〈土器〉に分類され、特に煤を擦り込んで磨いた〈黒色研磨土器〉で知られる。明治には廃窯した。
補記:途絶えていた蒲池焼を再興させようと、昭和にはいって蒲池焼窯跡に開窯した「蒲池窯」がある。また、蒲池焼の名を受け継ぎつつも、技法的には別物である陶器を作る「彦三郎窯」が活躍している。
板東寺焼(ばんどうじやき)
場所:筑後市熊野 創業:元和9年(1623)〜明治29年(1896)頃
蒲池焼の陶祖である家永彦三郎の次男・方次(田中平兵衛に改名)が、久留米藩主の御用土器司として熊野の板東寺に開窯。別名「熊野焼」。蒲池焼の製法を用いた〈黒色研磨土器〉の風炉などを焼いた。代々、藩の御用窯を務め、11代まで続いたが明治に廃窯となった。
宗七焼(そうしちやき)
場所:福岡市博多区祇園町 創業:江戸中期〜明治6年(1873)
代々瓦師の家の傍系として、正木宗七(初代)が開窯。素焼ものを専業とし、香炉や火鉢、面などの優品を制作、藩の御用焼物師として活躍した。2代目宗七は、鉄錆の質感を出した〈柚肌錆地焼〉を完成させている。その後は六代まで続くも廃窯となり、伝世品も少ない現在は、幻のやきものとなっており、詳細は不明。
須恵焼(すえやき)
場所:須恵町 創業:宝暦14年(1764)〜明治35年(1902)頃
新藤安平が須恵で陶石を発見し、有田の陶工の指導で〈染付磁器〉の焼成をはじめたとされる。後に藩指定の焼物所となり、幕末には藩の殖産興業の一 環として京の陶工・沢田舜山を招聘して隆盛。明治にはいり民窯となり、〈金錆染付〉と呼ばれる特徴的な作品も短期間制作されたが、廃窯となった。
朝妻焼(あさづまやき)
場所:久留米市合川町 創業:正徳4年(1714)〜享保10年(1725)頃
久留米藩主の命により、肥前(有田や伊万里)の陶工を招聘して開窯。藩窯として、白磁や染付を焼いたが、短期間で廃窯となった。
柳原焼(やなぎはらやき)
場所:久留米市柳原町 創業:天保3(1832)~天保7年(1836)
有馬藩の9代藩主頼徳(月船)が久留米城内に開窯した御庭焼。各地から陶工を招聘、茶陶を中心に井戸や三島、瀬戸や唐津など、国内外のやきものの写しを作った。
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佐賀のやきもの
唐津焼(からつやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:唐津市、武雄市 創業:天正年間(1573-1792)頃〜
桃山前期に岸岳城城主波多氏の領地で焼かれたのが始まりと言われているが、現在の唐津焼につながる本格的なやきものが始まったのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵後に朝鮮渡来の陶工によってもたらされたことによる。茶陶の優品が数多く残るが、日常雑器も人気で、愛陶家の間では、「備前の徳利、唐津のぐい呑」と言われるほど。種類も〈絵唐津・朝鮮唐津・斑唐津・彫唐津〉など豊富。しかし、江戸時代に入ると有田での磁器に押されて、陶器の唐津焼の生産は縮小。藩の御用窯が伝統を守ったが、明治になるとその庇護もなくなり、さらに衰退する。昭和に入り、12代中里太郎右衛門(無庵)が失われていた桃山〜江戸初期の古唐津の技法を復活させ、唐津焼の中興の祖に。現在では多くの窯元・陶芸家が集まり、人気のやきものとなっている。
補記*中里太郎右衛門窯と献上唐津:
江戸初期にやきものをはじめた中里又七を祖とする中里太郎右衛門窯。享保19年(1734)に唐津唐人町に移窯し、唐津藩の御茶碗師頭取を務めた。また、藩の御用窯であった唐人町御茶盌窯は「献上唐津」として様々な器種が焼かれており、その窯跡は現在国指定史跡として中里太郎右衛門窯の敷地内に保存されている。明治以降は民窯となるも伝統を継承し続け、12代太郎右衛門(中里無庵)は唐津焼の人間国宝、現在は14代が活躍している。 中里太郎右衛門窯 https://www.nakazato-tarouemon.com
武雄焼(たけおやき)
場所:武雄市 創業:慶長年間(1596-1615)〜
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、武雄領主後藤家信とともに来日した朝鮮渡来の陶工・深海宗伝とその妻・百婆仙が武雄に開窯したのが始まりとされる。土味を生かした〈陶器〉と、白の〈磁器〉の両方があり、刷毛目や象嵌、鉄絵など技法も様々。武雄焼の系統として、「黒牟田焼(くろむたやき)」や「多々良焼(たたらやき)」、「小田志焼(こだしやき)」があり、かつてはたくさんの窯元がそれぞれあったが、現在は伝統を受け継ぐ窯元がかろうじて存在しているのみである。
補記:百婆仙は夫の死後は一族を伴い有田に移窯し、深海は窯元として隆盛。しかし、戦後の昭和36年(1961)に窯元から陶磁器用絵具製造販売業の「深海商店」へと業種替えし、現在に至っている。
含珠焼(がんじゅやき)
場所:武雄市小田志 創業:明治16年(1887)〜大正期
武雄市西川登町小田志の樋口治実が精巧な〈蛍手〉の技法で特許を取得。蛍手は、磁器の素地に透かし彫りをし、上から釉薬を掛けて焼成すると、光に透けて見える技法であるが、一般の蛍手より複雑で、文様も大きい高度な技法。素地に珠(宝石)があるような印象から「含珠焼」と呼ばれたと伝わっている。しかし、高度な技術故に残された作品も少なく、現在では幻のやきものと呼ばれている。
有田焼(ありたやき)
場所:有田町 創業:元和2年(1616)〜
有田で焼かれた磁器の総称。佐賀藩初代藩主・鍋島直茂が朝鮮出兵時に連れてきた朝鮮渡来の陶工・李参平(金ケ江三兵衛)が陶石を有田で発見し、開窯。国内初の磁器焼成に成功した後、良質で豊富な泉山陶石が発見されたことで、現在に至る隆盛が続いている。寛永19年(1643)頃には初代酒井田柿右衛門が白磁上絵付け(赤絵)を完成させた。伊万里港から出荷されていたため、「伊万里焼」と呼ばれていたが、近代以降は生産地の名称である「有田焼」を用いるようになっている。17世紀後半にはオランダ東インド会社によって海外輸出され、「IMARI」はヨーロッパの王侯貴族に愛された。明治期にも欧米好みの華やかで大きな輸出陶磁器が盛んに作られたが、現在は伝統からモダンまで、様々な窯元・陶芸家が作品を発表している。
佐賀県陶磁器工業共同組合 https://www.aritayaki.or.jp
補記*酒井田柿右衛門と柿右衛門様式:
寛永年間(1624-1644)に初代酒井田柿右衛門が赤絵磁器の焼成に成功して以来、現在の15代柿右衛門まで受け継がれている、有田の名陶が柿右衛門窯。その「柿右衛門様式」は、〈濁手(にごしで)〉という温かみがあって赤絵と調和する乳白色の素地に代表される。しかし、江戸中期には金襴手が色絵の主流となり、濁手も途絶えてしまう。それを12代と13代柿右衛門が復活させ、〈柿右衛門(濁手)〉として国の重要無形文化財に指定されている。14代は色絵磁器の人間国宝、そして現在は15代柿右衛門が活躍している。
柿右衛門窯 https://kakiemon.co.jp
伊万里焼(いまりやき)
場所:伊万里市大川内山 創業:元和2年(1616)〜
江戸時代における「伊万里焼」は有田で焼かれた磁器のこと。一方、現在の伊万里焼は、鍋島藩窯があった伊万里市大川内山の窯元が焼いたものを呼んでいる。伝統の鍋島様式を継承した〈色鍋島〉や〈鍋島染付〉〈鍋島青磁〉などに加え、モダンな意匠まで、多彩。
伊万里鍋島焼協同組合 https://imari-ookawachiyama.com
古伊万里(こいまり)
場所:有田町 創業:江戸時代
江戸時代に有田町で焼かれた磁器を「古伊万里」と呼ぶ。しかし、赤絵が完成する以前の初期伊万里は含めないことも多い。
補記:江戸時代に輸出され、ヨーロッパの王侯貴族に愛された「IMARI」は、ヨーロッパの窯にも大きな影響を与えた。英王室御用達の名窯ロイヤルクラウンダービーには「オールドイマリ」というシリーズがあるほどである。
鍋島焼(なべしまやき)
場所:有田町、伊万里市大川内山 創業:寛永5年(1628)〜
佐賀藩(通称:鍋島藩)が献上用として、有田の岩谷川に藩窯を開窯したのが寛永5年(1628)と言われる。現在も窯業地として窯元が集まる大川内山に移窯したのが延宝3年(1675)。藩が直接運営し、分業などの陶工たちの組織が完成して、隆盛。作られた鍋島焼は将軍家への献上品や幕府重臣や他藩大名などの贈答品と、鍋島家が使うためだけに生産され、厳しい管理下で高い品質を保ち、その技術の漏洩を防ぐために山間地の大川内山の集落には関所も設置されていた。この藩窯は藩がなくなる明治4年(1871)まで続いたが、組織は解散・廃窯となり、途絶えた。しかし明治10年(1877)、鍋島焼の復興を図り、鍋島家の補助を受けて民窯の「精巧社」を設立。その後も窯業地として存続し続け、現在は地区が「鍋島藩窯公園」となり、窯元が集まっている。
補記*今泉今右衛門家の鍋島:
有田では寛文年間(1661-1673)には、赤絵屋が集まる「赤絵町」が形成されており、その中でも特に技術の優れていた今泉今右衛門家が藩の御用赤絵師として、藩窯の色絵付を行っていた。その赤絵の秘法は、藩の家督相続法によって一子相伝の秘法として保護されている。明治に入り、藩窯は廃窯し、御用赤絵屋の制度も無くなると、10代今右衛門は本窯を築窯、磁器の焼成をはじめた。11代は色鍋島や古伊万里の最盛期の作品の復元につとめ、宮内省及び大宮御所の御用達に。12代は近代色鍋島の復興させた名工として名高く、〈上絵付(色鍋島)〉として国の無形文化財に指定されている。13代は染付吹墨・薄墨吹墨の技法を確立し、色絵磁器の人間国宝。現在は14代今泉今右衛門が活躍している。 今右衛門窯 https://www.imaemon.co.jp
伊万里焼・有田焼(いまりやき・ありたやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:有田町、伊万里市 創業:元和2年(1616)〜
伊万里焼と有田焼は現在、技術的には厳密な区分がなく、経済産業省指定の伝統的工芸品では「伊万里焼・有田焼」として登録された。
注記:広義での技術的な区分がないという意味であり、各窯元が持つ独自あるいは伝統の技法や意匠は別。たとえば、柿右衛門様式や鍋島様式などは代表的。
肥前吉田焼(ひぜんよしだやき)
場所:嬉野市吉田 創業:慶長3年(1598)〜
佐賀藩初代藩主・鍋島直茂が朝鮮出兵時に連れてきた朝鮮渡来の陶工の一人を吉田に開窯させたのが始まり。藩の奨励で磁器が焼かれ、主に食器が中心、また嬉野は茶の名産地であるため、土瓶や急須・湯吞が多い。様式にとらわれず、自由なやきものづくりが特徴と言え、現在も各窯元がそれぞれ個性溢れる器を発表している。
肥前吉田焼窯元協同組合 https://yoshidayaki.jp
補記:佐賀藩が作らせたやきものとして、有田の赤絵町周辺を内山、その周りを外山と呼び、嬉野はさらにその周りである大外山に位置する。
志田焼(しだやき)
場所:嬉野市塩田町 創業:江戸後期(18世紀半ば)〜昭和59年(1984)
佐賀藩の本藩領の志田東山と支藩蓮池領の志田西山(現在の塩田町)の二つの窯場で焼かれたもの。高級磁器を焼いた有田に対し、大衆向けの磁器を大量生産した。幕末期の佐賀藩全皿山(窯業地)の中で、幕末には志田焼が過半数にも及んだと考えられ、大正〜昭和に稼働した志田工場跡は近代化産業遺産に認定されている。
白石焼(しらいしやき) ☆佐賀県指定 伝統的地場産品
場所:みやき町 創業:文化3年(1806)〜
白石鍋島家が本藩の御用窯がある大川内(伊万里市)から陶工・藤崎百十を招聘、白石で御用焼を命じて開窯させたのが始まり。地元の陶石「五穀さん」と天草陶石混ぜ、白磁に似た〈白罅焼(しろひびやき)〉の技法を創始した。現在も白石神社周辺に窯元が存在し、刷毛目や飛鉋などの民陶風の作陶が主流。
走破焼(そうはやき)
場所:みやき町 創業:慶応2年(1866)〜明治14年(1881)
白石焼に、京焼の陶工・臼井走破(うすいそうは)を招聘、花鳥画などを絵付けした京焼風の白石焼を作った。この走破とその弟子たちの作品は白石焼の中で独自性があり、彼らの作品だけを特に「走破焼」と呼んでいる。この走破焼は明治期に途絶えるが、白石焼そのものは焼き続けられており、現在に至っている。
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長崎のやきもの
中野焼(なかのやき)
場所:平戸市 創業:慶長3年(1598)〜、慶安3年(1650)
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に平戸藩の領主・松浦鎮信が連れ帰った朝鮮陶工の巨関らが中野村(平戸市)に開窯。古唐津系陶器窯で、当初は高麗風の刷毛目や白化粧などをした茶陶や日常雑器が焼かれた。その後、陶器から磁器焼成へと移行したと考えられるが、中野村に陶土がなくなり、同じ領内であった三河内に移窯したと考えられている。その後、中村村の他の陶工たちも三河内に移った。そのため、この中野焼が三川内焼のルーツと言われている。
三川内焼(みかわちやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:佐世保市三川内本町 創業:寛永14年(1637)〜
陶土を探して平戸藩内を転々とした巨関とその子・今村三之丞は、寛永10年(1633)に針尾島で網代陶石が発見。今村三之丞は寛永14年(1637)に平戸藩の御用窯として開窯した。別名「平戸焼」。寛文2年(1662)、三之丞の子・今村弥次兵衛(如猿)は天草陶石と網代陶土との調合に成功し、美しい白さの磁器が作られるようになり、隆盛。御用窯として高品質で技巧を凝らした細工や茶器を作り、寛政年間(1789~1800)頃までは、献上品として禁制の非売品であり、その製法は門外不出であった。明治以降は民窯となり、パリやシカゴなどの万博にも出品、国際的にも高い評価を得て輸出用の磁器を生産、さらに時代の変化に合わせて国内向けの高級食器なども生産するようになり、現在に至っている。
三川内陶磁器工業協同組合 https://www.mikawachiware.or.jp
補記:巨関に招かれ、唐津から椎ノ峯(伊万里市)に移っていた高麗媼(中里嫛)が元和8年(1622)に三川内に移窯。藩の御用窯作りに参加した。この高麗媼と、純白の磁器を完成させた今村弥次兵衛(如猿)は、三川内焼の発展させた陶祖として祀られている。
市ノ瀬焼(いちのせやき)
場所:佐々町 創業:宝暦1年(1751)〜文政8年(1825)
三川内の陶工・福本新左衛門らが市ノ瀬に開窯した、三川内焼の分流。白磁染付の日用雑器を焼いたが、三川内焼と類似しているため、識別は困難。また、庶民向けだったため、伝世品も極めて少ない。3代新右衛門までの約75年間で閉窯した。
補記:文化1年(1804)に、瀬戸の陶工・加藤民吉(瀬戸の磁祖)が、身分を隠して3年間住み、磁器の秘伝を盗んだという伝承がある。
波佐見焼(はさみやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:波佐見町 創業:江戸初期(17世紀はじめ)〜
慶長年間(1596-1615)には開窯し、陶器が焼かれていた波佐見では、朝鮮渡来の陶工も関わり、有田焼と同時期には磁器の焼成に成功したと考えられている。その後、三股で陶石が発見され、〈青磁〉を中心に染付など、本格的な磁器の生産が始まった。日常食器が中心で、中でも唐草模様を描いた、厚手で丈夫な〈くらわんか碗〉が名高い。江戸時代の庶民にも広く浸透し、日本における食文化の発展に寄与したと言われている。一方で、輸出用として〈コンプラ瓶〉も有名。現在も、工場や工房が多く集まっており、磁器の食器の生産は国内でもトップクラス。
波佐見焼振興会 https://hasamiyaki.com
補記:波佐見での開窯期は不明だが、慶長年間(1596-1615)には陶器が焼かれていたことが下稗木場窯跡で確認されている。
長与焼(ながよやき)
場所:長与町嬉里郷 創業:寛文7年(1667)〜文政3年(1820)
波佐見の陶工が長与に移窯し、始まったと考えられる。興廃を繰り返しつつ、150年間ほど続き、主に庶民が使う日用雑器が焼かれた。有名な〈長与三彩〉は、1780~1820年頃に突如として登場した高級磁器。名品が伝世しているが、詳細は不明。
現川焼(うつつがわやき)
場所:長崎市現川町 創業:元禄4年(1691)〜寛延1年(1748)頃
矢上村(現川町)で田中宗悦が開窯。別名「矢上焼」。唐津と京が混じった作風で、〈刷毛目〉の陶器が特徴的。茶碗・皿・鉢・向付などを生産するも、60年間ほどで廃窯となった。
【再興】
現川焼(うつつがわやき)
場所:佐世保市木原町 創業:昭和期(20世紀)〜
慶長7年(1602)に木原皿山(佐世保市)に開窯した臥牛窯は陶器と磁器を焼く窯であった。12代横石臥牛は、幻となっていた古現川焼の再現を試み、さらに13代目に昇華。繊細な刷毛目と立体的な盛り上げ技法が高い評価を受けている。現在では現川焼の伝統秘法を持つ唯一の窯元として、15代横石臥牛が活躍している。
臥牛窯 http://gagyu.shop-pro.jp
補記:明治期に馬場藤太夫や檀野勝次も古現川焼の再興を試みているが、続かなかった。
亀山焼(かめやまやき)
場所:長崎市伊良林町 創業:文化4年(1807)〜安政年間(1854-1860)
長崎奉行の命により、陶工の大神甚五平らが開窯。美しい発色の呉須を用いて、中国趣味の絵付けの施した〈染付磁器〉を焼いた。50年ほどで廃窯しており、伝世品も少ない”幻のやきもの”であるが、坂本竜馬が愛用したという亀山焼の茶碗が残されている。
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大分のやきもの
小鹿田焼(おんたやき) ★国指定 重要無形文化財
場所:日田市小鹿田 創業:宝永2年(1705)〜
黒木十兵衛が小石原村の陶工・柳瀬三右衛門を招いて開窯。開窯期から窯元の数もほとんど変わらず、9軒の窯元が一子相伝で伝統技法を継承している。主に農家の日用雑器を時給するために焼かれていた。昭和にはいって、民芸運動のバーナード・リーチが滞在したことで、全国的な注目を集める。作風は〈飛び鉋・刷毛目・櫛描〉〈打ち掛け・流し掛け〉などの多彩な技法が用いられ、昔ながらの陶法に人気が集まっている。
補記:小鹿田の里は重要文化的景観として認定されており、谷川から引いた水力で陶土を砕く「唐臼」の音が静かな里に聞こえてくる。この昔ながらの土作りで、今も陶器を焼き続けている。
末広焼(すえひろやき)
場所:臼杵市末広 創業:享和2年(1802)頃〜文化12年(1815)頃
臼杵藩の御用窯として末広に開窯。島原や小石原らの陶工によって、陶器と磁器が焼かれたとされるが、短期間で閉窯となっており、詳細は不明。輪花が特徴的な皿が多く焼かれたようである。
補記:2015年に「臼杵焼」として、再興プロジェクトが立ち上がっている。史料が少ない中、伝統をアレンジし、〈白磁輪花〉シリーズなどを発表している。
小宛焼(おあてやき)
場所:緒方町小宛 創業:文久3年(1863)〜明治7年(1874)
岡藩によって、長崎の亀山焼の陶工が招聘されて開窯した御用窯と考えられている。伝世品が少ないが、灰白色の素地に山水文様の染付磁器が知られている。
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熊本のやきもの
天草陶磁器(あまくさとうじき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:天草地方 創業:慶安3年(1650)頃〜
熊本県天草地方で焼かれる陶磁器の総称として、近年に統一された新しい呼び名。天草は天領地(幕府直轄)であったため、庄屋を中心として各村がそれぞれ陶石を販売したり、陶磁器を作ったりしていたため、佐賀藩における「伊万里焼」のように、天草全体を示す名称は歴史的になかった。豊富な天草陶石と陶土が採掘されるため、古くから磁器・陶器ともに焼かれており、現在でも天草全体に窯元・陶芸家が活躍している。
天草陶磁器の島づくり協議会 https://amakusatoujiki.com
内田皿山焼(うちださらやまやき)
場所:天草郡苓北町内田 創業:慶安3年(1650)頃〜?
“内田皿山郷(やきものの郷)”には古内田皿山窯跡があり、有田焼・波佐見焼に次ぐ古い磁器窯であると考えられている。中国風の赤絵や染付、素朴さのある民芸調の白磁などが焼かれた。
【再興】
内田皿山焼(うちださらやまやき)
場所:天草郡苓北町内田 創業:昭和45年(1970)〜
木山勝彦が開窯。古内田皿山焼の古窯跡の発見を機に、幻の窯の復興を決意。陶片にも形跡が見られる天然柞灰(いすばい)を用いた磁器作りをしている。
内田皿山焼(窯元) https://www.uchidasarayamayaki.co.jp/
高浜焼(たかはまやき)
場所:天草市高浜 創業:宝暦12年(1762)〜
高浜村の庄屋・上田家が長与焼の陶工・山道喜右衛門を招いて開窯。〈染付錦手〉の磁器ができるようになり、安永6年(1777)にはオランダとも交易、最盛期に。明治33年(1900)に閉窯するも、昭和27年(1952)に再開し、現在に至っている。
高浜焼寿芳窯 https://takahamayaki.jp
補記:やきもの制作をはじめる前の正徳2年(1712)頃から、上田家は天草陶石の採掘を行ってきた。高浜焼が閉窯した明治期も陶石採掘業は継続しており、現在も「上田陶石」という会社が上田家によって存続している。
水の平焼(みずのひらやき)
場所:天草市本渡町 創業:明和2年(1765)〜
本渡町の水の平に初代岡部常兵衛が開窯。当初から作られていた〈海鼠釉〉に加え、5代目の〈赤海鼠〉が特徴的。現在は8代目の岡部祐一が継承。
丸尾焼(まるおやき)
場所:天草市北原町 創業:弘化2年(1845)〜
初代金澤與市が丸尾ヶ丘に開窯。当初は瓶・土管等のいわゆる荒物を焼いていた。窯業を学び、山形の平清水陶磁器伝習所や天草窯業株式会社など各地で活躍した金澤武雄が、昭和にはいって3代目を継ぎ、独自の釉薬〈乳白釉・白釉・黒釉・緑釉・透明釉〉を開発。やがて荒物の製造は中止し、日用雑器を中心として、現在に至っている。6代金澤佑哉が継承。
丸尾焼(窯元) https://www.maruoyaki.com
小代焼(しょうだいやき) ★経済産業省指定 伝統的工芸品
場所:荒尾市、南関町 創業:寛永9年(1632)〜
豊前から転封された細川忠利が、豊前の上野焼陶工・源七(牝小路家初代)と八左衛門(葛城家初代)を伴い、小岱山麓に移窯させたのが始まり。この2家は明治〜大正期に閉窯となってしまうが、現在は別系統の窯によって伝統が継承されている。鉄釉に白濁釉を流し掛けした作風が代表的で、素朴で味わいがあり、現在では茶器の他に、食器などの日用品も多く作られている。腐敗しない、生臭さを移さない、湿気を呼ばない、毒を消す、延命長寿が得られるという実用性の高い器であり、別名「五徳焼」とも呼ぶ。
小代焼窯元の会 https://shodaiyaki.com
高田焼(こうだやき)
場所:八代市 創業:寛永9年(1632)〜
転封する細川忠利に従い、豊前の上野にいた陶工・尊楷(上野喜蔵)が高田村(八代市)に開窯。別名「八代焼」。初期は上野焼風だったが、きめの細かい胎土により、象嵌の技法が完成。褐色地に白模様の象嵌だけでなく、白地に黒色の象嵌模様の太白焼(白八代または白高田)も焼かれるようになった。この上野窯は、明治維新まで、細川家御用焼として作陶。明治には窯を現在地の日奈久に移窯、現在は13代上野浩平が継承している。
高田焼上野窯 http://www.aganogama.jp/
補記:朝鮮渡来の陶工・尊楷(上野喜蔵)は豊前藩主・細川忠興(三斎)が招聘し、上野に開窯。その後、高田に移窯、高田焼を創始した(福岡やきもの「上野焼」参照)。
網田焼(おうだやき)
場所:宇土市網田 創業:寛政4年(1792)〜昭和7年(1932)
天草の高浜焼陶工・山道喜右衛門を招いて網田に開窯したのが始まりと言われている。藩の保護下で、繊細で質の高い置物・香炉、筆立などが焼かれ、献上などもされていた。しかし、30年ほどで藩の保護が打ち切りになると、日用雑器を大量生産するようになり、徐々に品質が低下。明治・大正期も細々と続いていたが、昭和にはいって廃窯した。
網田焼の里資料館 https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/30/141.html
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