近現代 (1)

update:2018/05/18

年表的やきもの考も9回目。いよいよ近現代です。

・・・専門家でもない筆者、特にどこの分野が得意という事ではありませんが、明治期はどちらかというと苦手の時代になります。なにしろ、資料が少ないのです。専門の研究者も少ないし、博物館などで体系的に見る機会も実に少ないのです・・・まぁ、明治に限らず筆者の不明を恥じる日々ではありますが、こんなブログを始めた手前、勉強させていただく気構えでがんばってみたいと思います。

さて、なんで明治期のやきものは見る機会が少ない、と言うと、明治は窯業が盛んではなかったのではと捉える方がいらっしゃるかもしれませんが、決してそうではありません。むしろ、明治政府は奨励しており、明治初頭には、輸出産業の主力の一つだったのです。
ではなぜ、というと、簡単に言ってしまえば、明治期のやきものは、優れた産業品として考えられてきたから。

現在では、「産業品」としてのやきものと、「美術工芸品」としてのやきものという区別があります(漠然とした話で、作り手の意識の問題かも)。そして、美術工芸品という区分でないと、美術館・博物館には収蔵されにくい。さらには、明治初頭から中期にかけては、国立博物館か、近代美術館かという境界線も曖昧です。現在では「美術品」としての再評価が進んでいますが、輸出が中心だったこともあり、今から収集するのは大変でしょう。

ちなみに、やきものを収集している国立施設としては、東京では上野の国立博物館と竹橋の近代美術館工芸館(※註)が代表ですが、どちらも文部科学省の管轄。そして、伝統的工芸品(この場合は産業)を決めているのは、経済産業省の管轄です・・・こんなところにも縦割り行政が見え隠れするところが面白いですね。

話を戻しましょう。時代は19世紀です。ヨーロッパではジャポニズムという日本趣味の潮流が押し寄せていました。

◎万国博覧会

明治以前、江戸時代から伊万里より日本のやきものは輸出されていました。ヨーロッパでは18世紀中頃、ロココ様式とともに、シノワズリ(中国趣味)の人気が高くなり、実はその中に日本の伊万里も含まれていたのです。オランダの東インド会社は、中国の明朝末期と清朝の成立期の動乱期に景徳鎮窯の磁器が入手困難となり、伊万里に重心を移したためです。
その後は中国からも再び輸出されましたが、人気の伊万里を模したチャイニーズ・イマリが作られたほど。にもかかわらず、ヨーロッパでは、十把一絡げでオリエンタリズム(東洋趣味)として、何でもかんでもシノワズリとなっていたらしいです。

本格的に「日本」が注目されるきっかけとなったのが、各国で開催された万国博覧会です。なかでも、明治6年(1873)のウィーン万博は日本政府が初めて公式参加をし、日本館が建設された万博として、やきもの史としても大きな出来事になりました。このころから、西洋の窯業技術なども取り入れられるようになり、万博向きの華やかで、超絶技巧の名品がたくさん作られたのです。そして、ジャポニズムが興りました。

もともと、この時期に国策として奨励されたやきものは特に海外を意識して作られたため、西洋の広間にふさわしい、背の高い大きな壺や花瓶、大皿などが中心。日本の居室にふさわしいやきもの、そして茶室のためのやきものは、現在に残るような名品が誕生しにくい時代であったようです。

◎帝室技芸員

産業として、万国博覧会に出品されていたと書きましたが、この頃に名を成した陶芸家(陶工)たちは、現在では再評価が進んでいます。その代表格が、現在の人間国宝(重要無形文化財保持者)の前身にあたる制度の「帝室技芸員」の認定者たち。陶芸の分野では、清風与平、伊藤陶山、諏訪蘇山、板谷波山、宮川香山が認定されています。
中でも、宮川香山の超絶技巧は近年、再び注目が集まってきており、大規模な回顧展なども開催されています。有名な高浮彫の技法は、現在の作家でも再現することが難しい高度なものです。また、板谷波山は昭和になっても活躍を続け、帝室技芸員に続く制度として人間国宝の候補にもあがりましたが、辞退しています。

今回は、明治だけで終わってしまいました。次回は大正から昭和へ。いよいよ、本格的な「陶芸家」と名乗る存在が登場してきます。
 

陶芸のジャポニスム

新品価格
¥8,580から
(2023/6/23 16:37時点)


 
(2010年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)
 
※註:東京国立近代美術館の分館として、北の丸公園内にあった工芸館は、2020年に閉館し、石川県金沢市に「国立工芸館」として移転しました。(2023年6月加筆)