原始

update:2018/06/22

前回まではやきもの・陶芸における「窯」の概要をざっくりと書いてみましたが、ここからは、その発展を追ってみたいと思います。

ご存じの方も多いと思いますが、改めて考えてみても、日本のやきものの歴史は本当に古い。それと比べると、「窯」の発展の歴史はまだまだ短いです。

日本のやきもののはじまりは、縄文時代の土器。縄文時代は世界史的には新石器時代にあたり、縄文土器は最も古いモノで、紀元前1万4000年のものが確認されています。
同時代の中国文明では紀元前8000年のものが、古代オリエント文明では前7000〜6000年頃の土器が確認されていますが、現時点では、日本の縄文土器が最古と言えます。もちろん、これはいつ新しい発見があって、覆されるか分かりません・・・そんなものですよね、考古学とは。

この縄文土器は1万年間という、途方もなく長い年月作り続けられます。その間、技術的にも造形性にも変遷をたどっていきますが、その後の弥生土器、土師器(はじき)と、紀元後に至っても、焼き方に関しては、大きな変化が見られなかったと推定されています。

その焼き方とは「野焼き(のやき)」です。現在、野焼きと言えば、一般的には焼き畑農業のような、新しい草をよく生えさせるために野原を焼くこと、となりますが、この場合は、やきものの世界における野焼きは、土器を焼くために工夫した焚き火のようなものをイメージしてみてください。そして、これは、「窯」と呼ぶには原始的で、構造的に作られたものとも言えません。つまり、やきものの歴史は早くても、1万年以上の間、窯を作って効率的に生産することはなかったと考えられます。そして、窯がない以上、やきものの技術も飛躍的な進歩は望めません。

ちなみに、現在推測される野焼きの方法は、平地(後の世の窯になると斜面が中心になるのとは対照的)に、浅く穴を掘り、まずは薪や藁などを燃やす。その「熾き(おき;赤くおこった炭火)」の上に成形した器を並べ、さらに薪や藁を囲って焼く。もちろん、この方法にたどり着くまでにも、ただ薪のなかに入れて焼いただけ、とか変遷があったことでしょう。いずれにしても、構造的な建築物ではない以上、遺構としても残りにくい。先史時代(文献的資料のない時代)のことでもあり、はっきりしたことは分かりません。地面に焼土層や土器が出土したりすることで、考古学者が研究を進めているそうです。

いずれにしても、構造的な建造物である「窯」ではないので、高い温度で焼いたり、長時間焼いたりすることは難しい。当時を再現して焼成実験なども多数行われていますが、温度は800度程度までが限界だそうです。ちなみに現在では、焼き方や窯によっても色々ですが、概ね1100〜1300度が、丈夫でしっかりとした実用性の高いやきものを焼く温度とされています。

ところで、現在では、この「野焼き」を作品づくりとして行っている陶芸家がいらっしゃいます。現代人にとって、古代の工法は創造力をかき立てる“なにか”があるのでしょう。また、各地の埋蔵文化センターや考古学関連の施設などで、野焼きの体験イベントなどを行っていますので、興味のある方は是非! (火事の危険があるので、手軽に真似しようとは思わないでくださいね)
 

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(2011年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)