update:2018/07/20
さあ、窯の話を続けましょう。まずは平安時代です。
前回に引き続き、穴窯によるやきものが作られ続けていましたが、変化が見られてきます。単純な自然斜面によるトンネル状の窯という構造は基本的に変わりませんが、どんどん需要が高まっていったらしく、窯自体も大きくなってきました。幅も広くして、長くして、たくさん器が詰められるように。そうなると、単純な話、斜面を掘って簡易な天井を付けただけでは、崩落してしまいます。そこで、柱や壁が登場してくるのです。
この柱を分焔柱(ぶんえんちゅう)と呼びます。天井を支えるため、そして炎を分ける柱。分煙ではありません(念のため)。この登場あたりが、やきものの区分的には中世窯への移行期と考えられます。
その構造は、燃焼室(薪を投げ込み、燃やす部分)と焼成室(作品を詰めて置いて、焼くための部分)の間に、中央に柱状に残して斜面を掘ったトンネルにするか、トンネルを掘った後に土(粘土)で固めた木材の柱を固定したものがあります。
いずれにしても、燃焼室のすぐ奥にあり、炎は走り出す前に柱にぶつかって左右に分かれます。トンネルは、壁から天井にかけて緩やかなアーチ状になっていますので、左右に分かれた炎が壁面に沿うように走ると、焼成室全体に均一に熱が広まるのです。
炎が走る音と、すさまじいパワーを想像してみてください。これに魅せられ、または、求める「やきもの」がこのパワーを必要としていると感じて、現在の陶芸家たちも穴窯で作品づくりをしている方がたくさんいます。
さて、現在確認されている分焔柱のある、代表的な窯跡と言えば、愛知県の猿投窯(さなげよう)があげられるでしょう。古陶磁ファンにとっては、もっともメジャーな古窯の名前かと思いますが、正式には、猿投山西南麓古窯群と呼び、広いエリアに1000基以上の窯が築かれ、700年以上の歴史がある窯でもあります。歴史がありますので、窯のタイプにも種類が見られるのです。
その中で保存状態が良く、一般公開されているのが、日進市の香久山古窯(岩崎45号窯)です。平安時代初期の築窯と考えられ、分焔柱のある穴窯の中でも、初期のタイプですが、分焔柱があり、天井をのぞくとほぼ完全な状態で残されています。必見の窯跡といいたいところですが、見学希望を日進市役所に事前連絡が必要ですのでご注意を。
さらに、平安後期には各地で分焔柱のある穴窯が見られるようになります。平安後期以降の穴窯の構造を見る際には、柱の有無も確認してみてください。
(→詳しくは「古窯跡リスト」も参照してください)
この中世窯への移行期は、いわゆる日本六古窯に代表されるような、瀬戸焼(愛知)・常滑焼(愛知)・丹波焼(兵庫)・信楽焼(滋賀)・越前焼(福井)・備前焼(岡山)などの中世(鎌倉〜安土桃山時代)の陶器の初期段階のものが焼かれており、焚かれた薪の灰が窯の中で器の表面に付着して釉薬化した、原始的な自然釉焼締陶、あるいは灰秞(はいゆう、あるいは、かいゆう)という灰を原料にした釉薬(ゆうやく;うわぐすり)が掛けられた原始灰秞陶器が見られます。
・・・この灰秞の話がまた書き出すと長い! いずれ別稿で書くとして、今回は窯の話に集中し、鎌倉・室町時代の本格的な中世窯へと進みます。
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(2011年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)