update:2018/07/06
「窯」見聞録の第5回目にしてようやく、窯をめぐる旅はいよいよ本編に突入します。日本における、本格的な窯の導入の話からです。
前回も書きましたが、土器という点では、日本はどこよりも古いですが、窯の発明による焼成という点では、中国の方が遙かに古い。それどころか、日本では窯という発想も、その構造的な発明もなかったと考えられています。中国から朝鮮半島、そして日本へと伝播したというのが通説です。
・・・もし今後、日本のどこかで、中国の系統とは異種の、縄文あるいは弥生時代の窯跡でも発掘されれば、日本における窯業史の根底を覆す発見となるかもしれません。それは考古学のロマンとして残すとして、現時点で分かっている古墳時代から話を進めましょう。
さて、古墳時代・・・3世紀末から7世紀と区分され、その名のとおり、大規模な墳墓が作られ、また大和王朝が日本の統一王朝として成立した時代。古墳時代末期は飛鳥時代の初期とも重なります。
古墳時代の前期〜中期は、実に謎だらけの時代です。卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳(はしはかこふん;奈良県桜井市)や、仁徳天皇陵と伝えられる大仙陵古墳(だいせんりょうこふん;大阪府堺市)などが出現しましたが、当時の文献資料はありません。
しかし5世紀には、朝鮮半島にある広開土王碑(こうかいどおうひ;朝鮮の高句麗王朝19代の王を称えた石碑)に、倭(当時の日本の呼称)と戦ったという記述が残されていて、この頃には朝鮮半島と日本は人の行き来が盛んであったことが分かっています。
さらに538年に仏教が伝来し、聖徳太子の時代には寺院が造られるようになったころには既に、朝廷の貴族や工人に渡来系が活躍するようになっていました。特に、朝鮮半島の3王朝である高句麗・新羅・百済のうち、もっとも倭と友好関係にあったのは、百済であり、百済は滅亡すると(660年、斉明天皇在位5年・実権は中大兄皇子)、王族・貴族を含む多くの百済人が倭国に亡命しました。
そこで、古墳時代にあたる5世紀頃から、日本に窯の技術も伝わり、作られるようになったと考えられています。
その時代の窯跡で、現在確認されている有名なものが、大阪府南部に広く分布する陶邑窯跡群(すえむらようしぐん)です。この新しく導入された窯のおかげで、焼成温度も飛躍的にあがり、それまでの土器とは比べものにならないほどの丈夫なやきものが作られるようになりました。それが、窯と共に伝えられた須恵器(すえき)です。
須恵器は、窯の中の温度を1000度以上の高温にし、さらに空気を閉じ込めて酸欠状態で燻し焼きにし、器の素材である鉄分を含んだ土が灰色あるいは灰黒色に変化した「やきもの」です。仕上がりの色は、よく目にする黒っぽい屋根瓦をイメージすると良いかもしれません。もちろん、須恵器の当時は須恵器瓦が作られていたのですが、現在の伝統的な屋根瓦の一つである「いぶし瓦」は、須恵器瓦の流れをくんでおり、酸欠状態で燻すという点は同じです。
この須恵器の初期のころのものは古墳から出土しており、高級品であったと考えられますが、奈良時代・平安時代と移るにつれて、集落からも出土されるようになり、日常的に使われるようになったと考えられます。
後編では、陶邑窯跡群で見られる窯の構造について、さらに話を進めます。
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(2011年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)