update:2018/08/03
今回はやきもの戦争以後の窯の話です。
このエッセイでも時々でてくる「やきもの戦争」。豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役(1592〜93, 97〜98)の別名です。当時、茶の湯における侘び寂が盛んになるにつれ、戦国武将の間でも高麗茶碗が珍重されていました。そこで、朝鮮へ攻め入った際、朝鮮人陶工を多く連れ帰ったのです。おかげで、日本においては新しい技術が伝わり、新しい窯場が武将の庇護の元にたくさん開かれましたが、逆に李朝(李氏朝鮮王朝)の窯業は壊滅的な打撃となり、復活には数十年の時間を要しました。
やきもの戦争は、日本のやきもの史において新しいステージを開き、日本にある伝統的な陶家には、このやきもの戦争以降に日本に渡来した、朝鮮系の陶工を祖とする方も少なくありません。各地の陶祖については、また別の機会にまとめましょう。
さて、やきもの戦争以降の窯場で有名なのは、唐津・萩・薩摩・伊万里(有田)などですが、他にも、その技術はそれまでにあった各地の窯場に伝播し、大きな影響を与えました。
本稿は「窯」がテーマですので、それに話を絞りましょう。
前稿の「大窯」時代から、新しい窯への移行は、16世紀末から17世紀頃とされています。新しい窯の形式が「登窯(のぼりがま)」です。一般的には、初期の一時期に割竹式登窯が九州の唐津で見られ、その後江戸時代に入る頃には連房式登窯が全国的に広がっていきました。
では、割竹式登窯(わりたけしきのぼりがま)とは?
文字通りのイメージで、縦に割られた竹を、山の斜面に伏せたような構造。竹の節のように、各部屋に区切りがあり、小さな半地上式の穴窯が連なった構造とも言えます。この窯の構造で焼かれたもので有名なのが、創成期の唐津焼です。
この割竹式登窯が画期的だった点は、器を詰めて、焼くための焼成室が複数あるということ。一部屋のみの大窯と違い、各部屋は小さく、部屋ごとに薪をくべることで、効率よく短時間で焼くことが可能になりました。
その方法は、まず、最初に一番下の焚口に薪を入れる。その炎は焚き口に近い部屋ほど勢いが強く、熱も回ります。そして、炎を通す穴(通焔孔)をくぐって次の部屋へ。各部屋をくぐり抜けたら、頂上の煙道と呼ばれる煙出しから外へ抜け出ます。
次に、各部屋の薪の投げ入れ口から薪を投入していきます。最初の部屋の焼成が終わると、次の部屋の窯焚き。その前部屋の熱も下から上がってきていますから、熱効率が良い。そうして、下から上へと作業を移していきます。
ちなみに、割竹式登窯の窯跡は、肥前陶器窯跡として国指定史跡になっています。中でも、唐津市の「古窯の森公園」の物は有名です。
しかしながら、この割竹式登窯は、あまり全国的な広まりを見せず、同じ登窯でも別の構造のものが登場します。その話は次回。
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(2011年初出、転載・加筆修正、2023年加筆修正)